大給(おおぎゅう)坂コース
  目 次

1. はじめに
2. 概 要
3. 坂と観光スポット 

大給坂
坂の下から見上げた写真

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1. はじめに
 「タモリのTOKYO坂道美学入門」の2回目として、このコースを選びました。文京区は生まれ育った土地なので、愛着があります。特に不忍(しのばす)通りは幼稚園の時に通っていた道(市電が通っていた)なので「千駄木」「団子坂」などは懐かしい地名です。歩いてみての感想としては、大給坂もさることながら汐見坂は良い坂で、森鴎外や夏目漱石と関係が深く、観潮楼(森鴎外記念館)が中心になる様に思われます。

2. 概 要
 東京メトロ南北線の本駒込駅から汐見坂、団子坂、大給坂などの坂を通り、千駄木駅(東京メトロ千代田線)に至るコースで、約1時間(各観光スポットでゆっくりすればもう30分くらい)かかります。団子坂から直接千駄木駅に出らるので、2回に分けて歩くときは団子坂で分けると便利です。
 コースの地図も参考にしてください。
コース概要図

2. 坂と観光スポット
  このコースは6本も坂があり、坂が中心です。漱石のねこの家は記念碑しかありませんが、森鴎外記念館が中心のように思います(このコースの作成時はまだ開館前なので、入館はしていない)。また団子坂、大給坂、たぬき坂と3本の坂が並行しているため、一筆書きでは廻れません。

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 No.  スポットの写真  名 称  説  明
 1 天栄寺 東京都文京区本駒込1-6-16
 東京メトロ南北線の本駒込駅にはエレベータの出口があります。本郷通りの東側に出ますが、駒本小学校入口の信号を反対側(西側)に渡ると、目の前が天栄寺です。
 寺内には江戸時代「駒込辻のやっちゃ場」と呼ばれた野菜市場がありました。農民が江戸に上る際に、寺内で休んだことから市場に発展しました。駒込土物店(つちものだな)跡(文京区登録史跡)で豊島区へ移転して巣鴨の豊島青果市場になりました。写真では見にくいですが門の右下に碑があります。
 天栄寺の創建年代は、元和3年・明暦3年に類焼したため不詳ですが、元和3年より万冶2年までは本郷丸山菊坂にあり、万冶3年当地に移転したといわれています。
 次の高林寺に行くには地下鉄の出口に戻り、駒本小学校入口の交差点を東北の方に50メートルほど歩くと右側に寺名を書いた碑があり、その少し奧にお寺があります。
 2 高林寺 東京都港区文京区向丘2-37-5
 明暦の大火後に神田から移りました。福沢諭吉が学んだ適塾の創始者で幕末期の蘭学者である緒方洪庵(こうあん)と、明治・大正期のアララギ派歌人の岡麓(おかふもと)が眠っています。
 単立(元曹洞宗)、金峰山
元禄4年(1691)、5代将軍徳川綱吉の命により、将軍家の武運長久の祈願寺として創建されました。
 伽藍(がらん)が整い、学寮もあり、土塀をめぐらした江戸時代の名刹(めいさつ)でした。
 関東大震災と第二次大戦で焼失し、現在の本堂は昭和51年の再建です。
 もとの道に戻り、そのまま直進し最初の角を右折します。約2百米歩くと、団子坂に向かう中程度の道に出ます。ここを右折すると直ぐ右側に次の光源寺があります。全部で約4百米、5分です。
3 光源寺(駒込大観音)
東京都文京区向丘2-38−22
 浄土宗 天昌山 光源寺
 天正17年(1589)に神田に創建され、慶安元年(1648)に現在地に移転した。境内には元禄10年(1697)造立の御丈約8mの十一面観音像があり、惜しくも東京大空襲で焼失しましたが、平成5年に御丈6m余の御像として再建されました。
 毎年7月9日と10日には「四万六千日(しまんろくせんにち)」の縁日が開かれます。
 右折した角まで戻り、前の道を直進すると、右側の同窓会館の前に石碑があり、塀の上に猫の像があります。
 約5百米、8分位でしょう。
 4 夏目漱石(猫の家)跡 東京都文京区向丘2-20-7日本医科大学同窓会館の前
 碑には次の文が書いてあります。
 「夏目漱石は明治36年1月英国から帰り、3月3日ここ千駄木町57番地に居を構えた。
 前半2箇年は一高と東大の授業に没頭したが、38年1月「我が輩は猫である」「倫敦塔」等を発表して忽ち天下の注目を浴び、更に「猫」の続稿と竝行、39年初めから「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした。歳末27日西片町に移り、翌40年4月朝日新聞社に入社し、以後創作に専念した。千駄木町は漱石文学発祥の地である。
 森鴎外も前に(自明治23年10月至同25年1月)その家に住んでいた。家は近年保存のため移築され、現在犬山市明治村にある。
                     昭和46年3月3日」
 来た道をそのまま少し歩き、次の角を左折すると、次の解剖坂が現れます。約百50米、2分位でしょう。
 5 解剖坂 東京都文京区千駄木1-2-1から1-3-3
 日本医科大学と同大学図書館の間にある坂です。階段の下り坂です。名前の由来が想像されますが、さすがに、文京区教育委員会も標識にはできなかったのでしょう。
 タモリさんの本では汐見坂を二つに分け、こちらを汐見坂1とし、このホームページで汐見坂とした方を汐見坂2としていますが、いくつかのホームページを参考にして、この名前にしました。
 坂を降りて交差する道が藪下通りです。左折して暫く歩き、千駄木1-7と千駄木1-8の間を西に入ると突き当たりがふれあいの杜です。約百50米、2分位です。
6 ふれあいの杜(もり) 東京都文京区千駄木1-11
 太田道灌の子孫が住んだ屋敷森で、武蔵野台地の東端にあたる緑地が残っています。
 周りには廃屋があり、小径などもあまり保守されていない感じを受けました。
 杜を一周したら、元の藪下通りに戻ります。約5拾米で、1分かかりません。
7 汐見坂 東京都文京区千駄木1-7-8〜1-23-4
 藪下通りは根津神社裏門から続いている道ですが、ふれあいの杜への曲がり角辺りからゆるい登り坂になり、次項の団子坂上まで続きます。これが汐見坂です。右の崖下には区立汐見小学校があり、昔は海が見えたのでしょう。桜の樹もあり、小学校の手前には藪下通りの由来を記した説明坂や彫刻などがあります。
 団子坂上の手前には今年の秋(2012.11)に開館する森鴎外記念館があります。そこまで約3百米、4分位です。
8 森鴎外記念館(団子坂上) 森鴎外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
団子坂 東京都文京区千駄木1-23-6から1-32-5
 江戸時代末に、近隣の染井や巣鴨の植木職人が作った菊人形の見せ物小屋ができて評判になりました。二葉亭四迷の「浮雲」や夏目漱石の「三四郎」にも、秋の団子坂の混雑ぶりが描写されています。
 森鴎外記念館は藪下通りが団子坂の交差点に出る直前の左側にあります。
 次の大給坂へ行くには、団子坂を突ききって直進し約3百米先の千駄木3-10-4と千駄木3-14-1の間を右折し(歩道が少し上がっているためわかりにくい)、約百米先から下り始めます。団子坂坂上からは約5分です。
 なお、団子坂を突ききった右側には文京区立図書館があります。
 団子坂を下れば不忍通りにぶつかり、地下鉄の駅もあります。
9 大給坂 東京都文京区千駄木3-10-13〜3-28-7
 不忍通りから千駄木山へ上っていく、細い坂道です。狭さ、勾配、見晴らしと三拍子揃った、なかなかの路地坂です。かつて、坂上に大給豊後守の屋敷があったことから大給坂と名づけられました。大給氏は、戦国時代に三河国(いまの愛知県)賀茂郡大給を本拠とした豪族で、後に徳川家康に仕え、明和元年(1764)、三河西尾に移封された一族です。
 左の写真は坂上から撮ったのに対して、このページの最上段の写真は坂下から撮ったものです。
 坂を下りきると不忍通りに出るので、左折して通りを約百5拾米北(道灌山方向)に向かって歩き、道灌山下の信号のある交差点の少し手前を左折すると、これが次項のたぬき坂です。標識のある坂上までで約6百米、8分位です。
10 たぬき坂 東京都文京区千駄木3-13-13〜3-25-6
 「このあたりは、旧千駄木林町で、昔は千駄木山といって雑木林が多く坂上の一帯は、俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので狸坂と名づけられた。
 狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)が流れて田んぼが開け、日暮里の台地と対している。この日暮里に諏方神社があり、8月27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「里ばやし」が毎夜聞こえてきた。
 土地の人たちは、これを千駄木山の"天狗ばやし"とか"馬鹿ばやし"といって、狸山にすむ狸のしわざと言い伝えてきた。」(たぬき坂上にある標識より)
 地図の印は坂下に付けてあります。標識のある坂上を左折すると元来た藪下通りで、千駄木3-7と3の間を左折すると突き当たりが区立須藤公園で約4百米、5分位です。
11 須藤公園
 不忍通り寄りの入り口です。
東京都文京区千駄木3-4
 松平備後守の下屋敷跡で、公園としてはかなり広く、池・弁天島・滝・藤棚などがあります。入口と対角線の別の入口を出ると百米足らずで不忍通りにぶつかり、左折したところに千駄木駅(東京メトロ千代田線)があります。
 入り口から公園を抜けて地下鉄の駅までは約4百米で、5分位です。

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[Last Updated 31/5/2013]