天地明察

  目 次

1. まえおき
2. 概 要
3. 本の目次
4. 内 容
5. 著者紹介
6. この本を読んで


冲方丁(うぶかたとう)著
発行所 株式会社角川書店

「本の紹介2c」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

1.まえおき
 私はNHKの週間ブックレビューを良く見ています。この本もそこで紹介され、読んでみてとても面白かったので採り上げました。まず、図書館で借りて読み、今回新たに購入して読み直しました。我が国で最初の暦を作るという大事業のほかに、算額、囲碁、和算など、興味のある話題に富み、しかも内容がとても良いと思いました。

2. 概 要
 SF小説で知られる気鋭の著者が初めて挑んだ長編小説です。主人公は江戸時代に実在した渋川春海(はるみ)。春海は囲碁の棋士としてお城に勤める傍ら、数学や天文学に夢中になります。そして星などの正確な観測をもとに、日本人として初めての暦づくりに取り組みます。著者は幕府や朝廷を巻き込んだ歴史に残る一大事業を、ひとりの青年の成長物語として軽やかに描きます。
(出典 2010.4.3 NHK週刊ブックレビュー 石田衣良氏のおすすめの1冊)

3. 本の目次
★ 序 章 5
★ 第1章 一瞥即解 9
★ 第2章 算法勝負 75
★ 第3章 北極出地 169
★ 第4章 授時暦   243
★ 第5章 改暦請願 332
★ 第6章 天地明察 392
   主要参考文献  475

目次に戻る

4. 内 容
★ 序 章
 渋川春海(45歳)が陰陽師(おんみょうじ)統括の土御門泰福(つちみかどやすとみ)と待っている。改暦の儀として、貞享(じょうきょう)元年(1684)3月3日に誤謬(ごびゅう)明らかな現行の暦法を廃し、新たな暦法をもって新時代の暦となすことを発布された。からん、ころん(絵馬同士がぶつかる音)を聞いてから、22年間たっている。

★ 第1章 一瞥(いちべつ)即解(前章の22年前)
 春海は登城日の朝、寄り道して駕篭で金王(こんのう)八幡神社(渋谷宮益坂)に向かう。帯刀はしているが邪魔である。金王八幡神社には絵馬(算額[算術の問題を奉納する])が奉納されていた。答えが合っている時は、明察と記す。掃除をしている「えん」に会う。遺題(算術書を出版する際に答えを書かず、問題のみが、補遺として付け加えられたもの)。忘れた大小を取りに戻った間に、関という武士が答えを書いていた。
 春海は会津藩藩邸に住んでおり、御城の碁打ち衆(碁をもって徳川家に仕える)である。例年11月に御城碁(将軍の前で打つ碁)を打つ。父の名を継いで安井算哲(さんてつ)と名乗った。晩年の子だったため、養子の算知が安井の名を継いでいた。3代将軍家光の異母弟の会津肥後守こと保科正之(ほしなまさゆき)の碁の相手として召し抱えられている。
 星(星、月、太陽のこと)の観測は、算術の次に春海を熱中させた。
 井上河内守正利(寺社奉行 笠間藩主 5万石の譜代大名 56歳 酒井と仲が悪い)に刀のことを訊かれる。
 酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清(老中 37歳)からの、「御城碁が好きか」との質問に対して「嫌いではないが、退屈だ」と答える。
 春海の名の由来は伊勢物語の歌「雁(かり)鳴きて 菊の花咲く 秋はあれど 春の海べに すみよしの浜」から来ている。「退屈ではない勝負が望みか」と訊かれて「はい」と答えている。

★ 第2章 算法勝負
 藩士安藤有益(ゆうえき 勘定方 算術の腕を持つ 春海より15歳年長)は金王八幡の絵馬のことを教えてくれた人である。
 春海はその夜、設問7問すべてが明察だったことを確認した。
 麻布の六本木近くの礒村が開いた塾は、弟子の1人村瀬義益(よします)に任されている。
 春海は塾を訪ね村瀬に名乗る。持参した干物で食事をご馳走になる。えんが給仕をする。
 関の稿本を春海が借りる。
 関孝和(たかかず 22歳 春海と同年)は関家に養子に入り、甲斐の国、甲府徳川家に出仕することになった。
 春海の芸は一に碁、二に神道、三に朱子学、四に算術、五に測地(測量実地)、六に暦術である。神道は山崎闇斎に学んだ。
 老中酒井との会話で北極出地を命じられる。
 観測隊の面々に挨拶する。
 上覧碁に出ない代わりに安井家の棋譜を本因坊に差し出す。
 出立のための準備を終えて、設問にとりかかり、期限の7日で問題を作り上げた。設問を村瀬のもとに持参する。
 12月の朔日(ついたち)が出立の日と決まった。
 関は設問を見たが回答不能と断定した。えんはその様子を春海に話す。
 春海は北極出地から帰っての、失地回復を期する。

目次に戻る

第3章 北極出地
 観測隊員は富岡八幡宮に集まった。
 隊長は建部昌明(たけべまさあき 62歳 書家 算術と天文暦学に長じている)、副隊長は伊藤重孝(しげたか 57歳 御典医 算術と占術に優れる)である。
 春海は二人の補佐で記録係であり、総勢は14名である。
 東海道を進み、小田原を目指す。日に5から7里歩く。
 各地で天体観測のための見晴らしの良い土地を探し、観測器具を設置し、木製器具を組み立て、子午線儀・大象限儀を設置する。天測の開始、3名の観測員、中心は平助、建部と伊藤は歩数で北極出地を予測した。
 次の日、春海が予測すると、たまたま観測値と一致した。
 的中は2度と起こらなかったが、その日から江戸に戻るまでの数百日間、春海は旅によって生かされた。
 正月明けに熱田に至った。さらに山田(伊勢)に至り、そこで伊勢暦を購入した。
 伊勢に滞在しているとき月蝕が起きた。
 宣明歴は中国で8百5年前に考案され、日本に将来された。ずれを生じていた。
 そこで、関孝和の稿本のことを打ち明ける。
 春になり、夏になった。東海道での天測を終え、山陽道に入り、四国へ渡った。さらに山陽道に戻って萩を目指した。
 その頃から建部の歩調が鈍くなった。赤間関(あかまがせき 下関)に到るまで立派に天測の指揮を務め、また歩測と算術をもって北極出地の予測を立てることを一度として欠かさなかった建部だが、やがて咳が止まらなくなり、ついに歩行に支障をきたすまでになった。建部は赤間にとどまり、伊藤が隊を取り仕切り、春海がそれを補佐しつつ、一行は九州を巡った。さらに各藩と交渉し、琉球、朝鮮半島、北京および南京に観測者たちを派遣している。
 観測隊は赤間に戻ったが、建部は江戸に戻り、北極出地の中間報告を行うとともに、引き続き療養することになった。その間、伊藤たち観測隊は山陰道を進み、江戸に向かいつつも城へ報告には上がらず、房総を巡って北上する。
 観測隊は犬吠埼から北上し、奥州路をたどった。
 会津では藩士たちの助けが最も充実していた。
 加賀藩は観測に反対したが、藩主自身が観測隊を城に招いた。
 奥州津軽が旅の終端だった。
 白河での宿泊中に、手紙が来た。建部の弟からのもので建部の死を告げていた。そこで伊藤に設問を見せた。
 旅から帰って3日目に建部の墓に伊藤と詣でた。6日目に礒村塾を訪ねた。三廏(みんまや 奥州津軽の最先端)で考えた設問を携えて。
 えんが結婚したことを村瀬に告げられた。昼間から酒を飲んで春海は寝てしまう。
 設問に対する関の答えは、明察だった。

目次に戻る

★ 第4章 授時暦
 寛文5年から6年にかけて幾つかの事件が起こった。
 山鹿素行の「聖教(孔子の教え)要録」はこれからの武士はいかにして生きるべきかを説いた。彼は会津若松生まれの武士で、朱子学、儒学、神道、兵法を学んで達者となつた。名高い兵法家である。
 酒井雅楽頭忠清が大老に就任した。
 聖教要録発行の罪が公儀で決定され、山鹿は江戸を追放され、赤穂に配流の身となった。
 春海は妻帯した。算知が碁所につき一門で天覧碁を打つ、そのために嫁をもらう。
 京の実家で祝言をあげた。こと19歳、春海は28歳である。ことは蒲柳の質なので病気がちで、平癒・健康祈願に務めた。
 水戸の御屋形様こと水戸光国公に招かれ、碁を打ちながら北極出地のことを質問された。渾天儀(こんてんぎ)も話題にあがった。神道についても訊かれた。
 関の新しい稿本に打ちのめされた。
 翌日酒井忠清が碁を所望した。その折、「会津肥後守(保科正之)様が、お主と、お主の持つ天地の定石をご所望だ」と告げられる。
 寛永7年秋に春海は会津に向かった。鶴ケ城に着くと予想を遥かに超える手厚さで迎えられた。一室を与えられ、翌日のお目通りを約束された。碁を一番打った。
 宣明歴のことを訊き、授時歴について尋ねる。
 保科正之は算哲に改暦を命じる。總大将は算哲。水戸光圀、山崎闇斎、建部昌明、伊藤重孝、酒井忠清が推挙した。「武断を排(しりぞ)け、文治を推し及ぼす」ためである。
 春海は武家屋敷を1軒与えられる。
 山崎闇斎、安藤有益、島田貞継(さだつぐ 算術家 安藤に算術を指導した人)が事業の中核として参加した。
 事業の基本方針と三つの指標(授時歴の勉強、天測の実施、暦註の検証)。これに第4の指標が追加された。「改暦による世の影響を考察せよ」これは保科正之による要請で、最善の導入の算段を整える。
 春海は、事業参加者を代表し、その思案を必死にまとめあげた。良い影響も悪い影響も、考えつくものはことごとく列挙する。
 宗教統制(天皇から観象授時の権限をうばうことになる)
 政治統制は宗教統制と紙一重である。
 文化統制(文藝を支配する 公家の反応は)、経済統制、頒歴(はんれき)
 大まかな概略を3ヶ月で組み上げ、正之に提出した。天文方という職分の創設。帝の勅命とする。幕府が朱印状を下す。
 最初の手はずとして、朝廷工作が実行に移された。朝廷からの返答は「授時歴は不吉」というものたった。事業は一旦、打ち切ることになった。
 江戸では義兄知哲と本因坊道悦による争碁が開始されていた。
 寛文9年になり、幾つかの出来事があった。1月に富貴の方が正之の子を産んだ。4月、かねて正之が願っていた隠居が認められた。
 京で改暦に協力してくれていた松田順承と暦註検討の集大成を発表した。「春秋述歴」である。次いで「春秋暦考」を翌年寛文10年に刊行した。さらに「天象列次之図」を単独で刊行した。北極出地以来の天測結果の集大成である。
 渾天儀を完成した。
 妻ことが死んだ。

目次に戻る

第5章 改暦請願
 ことは寛文11年10月1日に亡くなった。
 江戸にその年の初雪が降り積もった日、伊藤重孝が逝去した。
 春海、33歳の年の暮れだった。これ以後、春海は、常に死者を見送る側となった。
 寛文12年10月、春海は江戸で御城碁を務めた。ことの死後、1年が経っていた。
 宣明歴が2日ずれていることを明らかにし、近く決着がつくことを保科正之に知らせ、酒井忠清にも告げられた。酒井は幕府の長期安定を図っている。
 寛文12年12月15日、宣明歴は月蝕の予報を外した。一方、授時歴の予報は月蝕なしで ある。
 その僅か3日後、保科正之は世を去った。死の床で正之は「機運に乗り、今こそ改暦を実現せしめよ。その方策の一々を、春海に 主導せしめよ」と命じた。
 明けて寛文13年、春海34歳、全精力を傾けての改暦事業、実行であった。天皇と将軍へさし出す文書を作った。
 朝廷に「欽請改暦表(欽[つつし]んで改暦を請う)」を上表 臣算哲言(全責任と全執行の 裁断が算哲にある)
 その方策を文書化し、将軍家綱に献上した。「蝕考」「往歳略之(暦の要点)」乾坤一擲の書
 元号が改まり、寛文13年から延宝元年となった。
 初秋、春海は江戸にいて、麻布の礒村塾を訪れる。そこでえんと会い、互いにつれあいを亡くしたことを知る。
 また、関孝和の新しい稿本を借り受ける。
 関の稿本は「発微(はっぴ)算法」といい、今の代数のようなもので、大和の国の算学であるから和算である。
 日蝕、月蝕は授時歴のみが予想と一致したが、六つの予報の最後に、授時歴が予報を外した。
 春海は大老酒井、水戸光圀、将軍に呼ばれ、酒井に「算哲の言、また合うもあり、合わざるもあり」といわれた。
 6月に将軍家綱が、3代家光の25回忌法界の恩赦を行った中に、山鹿素行も含まれていた。
 明けて延宝4年正月(夢が藻屑と消えてからおよそ8ヶ月後)、雪解けを待って京に戻るばかりとなったある日、えんが訪ねて来て関が春海宛に出題したことを告げる。

目次に戻る

第6章 天地明察
 えんとともに麻布の礒村塾に赴くと、春海が敗れた三歴勝負にちなんだ設問だった。春海はえんから関の住所を聞き、訪ねて行く。関からは数理を盗んだと非難されるが、授時歴そのものが誤っているといわれる。関も授時歴を勉強したが、天文の知識のないものにはできないことであり、春海に難問を解くことを託す。
 春海は荒木邸に行き、そこで会ったえんに結婚を申し込む。
 1年後の、延宝5年の春に祝宴をあげた。
 その後、闇斎とも相談し解決の算段を明白にした。
 春海の精進は「天文分野之図」として結実する。延宝5年の冬から7年の夏にかけて出版された。さらに「日本長歴」という書を版行した。暦註の検証を神代の過去にまで遡って当てはめたものである。
 また水戸光国に頼んで「天経或問」を入手した。西洋の天文学の詳細を中国人が漢訳し たものである。
 酒井からは一度取り上げられた大小の2刀と、多額の金子を受け取った。
 将軍が家綱から綱吉に代わり、天和3年春に大地と天のどちらにも誤謬があ り、その正しい姿がにわかに出現した。授時歴が作られた中国の緯度と、日本の緯度の差 が術裡に根本的な誤差をもたらしていることを実証した。もう一つは天体の運行で、地球の軌道は円ではなく楕円なことである。
 春海はじっと腰を据えて改暦への算段を見極め、着々と布石を打つことに努めた。保科 と酒井の2人から学び、20余年の歳月で培い、江戸と京という日本の二つの中心地を往復 し続けた生活で身につけた態度であり戦略である。彼は幕府が財政難であることを利用し 帯刀を願い出た。
 天和3年9月、京で頒歴を売る大経師家に事件があった。そ こで幾つかの根回しを行った。そして天和3年11月に宣明歴が月蝕の予報を外した。
 霊元天皇の名において発布された勅により、陰陽頭(かみ)たる土御門家が、改暦を行う ことが決定された。土御門家から幕府に対し、京都所司代を通じて春海に上洛要請があっ た。春海が上洛すると、当主である土御門秦福(やすとみ)は好奇心旺盛な29歳、春海が弟子で秦福が師となることを告げると大和歴が帝の気に入ることを述べた。
 しかし、三つの暦(大統暦、授時歴、大和歴)が候補となり、大統暦採用の勅が下った。
 勅が発布されたその日、春海はかねて用意してあった280通に及ぶ手紙を出した。また 梅小路で天測を行い通りかかる人々に見せた。これにより大和歴の名前が京都市民の間で 評判になった。さらに土御門秦福に幕府から朱印状を下した。土御門家は、全国の陰陽師を配下とすることになり、その収入は莫大なもとなることは誰の目にも明らかであった。ほんの僅かな 期間で、それまで官歴に固執していた公家たちが、揃って土御門に賞賛を送るようになった。さらに加賀藩主・前田綱紀が動き、西三條家が、綱紀の意向を受けて朝廷を左右する相手との直接交渉の場を設定した。
 また大経師意春に大和歴の暦法による頒歴の大量作成と販売を一任した。そうして秦福 とともに大和歴採用を上奏した。
 貞享元年10月29日、霊元天皇は、大和歴採用の詔を発布された。

目次に戻る

5. 著者紹介
冲方丁(うぶかた とう)
 1996年、大学在学中に「黒い季節」で第1回スニーカー大賞を受賞しデビュー。以後、小説を刊行しつつ、ゲーム、コミック原作、アニメ制作と活動の場を広げ、複数メディアを横断するクリエイターとして独自の地位を確立する。2003年『マルドゥック・スクランブル』で第24回日本SF大賞を受賞。
 他著作に『微睡みのセフィロト』『ばいばい、アース』『テスタメソトシュピーゲル』などがあり、2010年、初の時代小説『天地明察』で第31回吉川英治文学新人賞を受賞、同書は2010年本屋大賞でも1位を獲得した。

6. この本を読んで
 この作品は史実を基に、フィクションを加えたのだと思います。渋川春海という人物を選択するに当たって、多くの評価者(保科保之、酒井、水戸光圀)が関わったこと、天文学者としての経験を二人の先輩から教えられたこと、関孝和という天才数学者の援助が得られたことなど環境が良かったともいえるでしょう。絵馬のぶつかる音(カラン、コロン)と場面の設定(序章と第6章 「天地明察」)などに著者の感性、映画的手法を感じます。
 算額、和算、囲碁、大和歴の制定など興味深い話題が沢山詰め込まれています。特に最後の新しい問題を見つける場面や、保科と酒井の2人から学んだ態度であり戦略を詰めて行く場面は感動的でした。戦国の時代から平和な時代へという変化に対して保科保之の打った手も、丁寧に書き込まれていると感じました。

「本の紹介2c」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

[Last updated 3/31/2012]