信じること



真宗の僧侶である大峯顯との対談『君自身に還れ』は、池田晶子のベスト本だ。

著名な哲学者の名前が飛び交い、自分では使ったことのない概念が頻発する。当然のことながら、理解にはほど遠い。しかし、自分の向いている方向がよくわかった。

西洋哲学を学んだ大峯は、信仰と理性をはっきりと区分する。
信仰の領域は東と西に分かれるかもしれないけど、理性は東西を横断するユニバーサルな地平です。そういう地平に帰らなければなりません。仏教の普遍性をいうとき、このことを忘れたら、それは依然として仏教の中にいるだけのことです。(p.232)
仏教の場合は、ブッダという人ははじめから哲学者たちとの論戦をくぐっています。キリスト教の場合、イエスは哲学者じゃないんですよ。詩人です。
さらに、ことばについて語る。
哲学や学問の言語というのはロゴス、理性的言語です。これは真理を言おうとする言語ですから、実用の目的を目指していない。ものの本質をあらわす理性的言語というのがあるんですね。この頃の人々が本を読まない傾向があるということは、理性的言語というものが信じられないんじゃないかな。(p.49)
信じる信じない以前に、理解できないからだ。レーベンは「生きる」、ザインは「ある」、空は「そら」と表現してくれれば、いくらかはましだろう。
一人の哲学者がなぜそういう基礎概念を使うかっていうことは、それはやっぱりその人の好みでしょう。問題はその概念を使ってどこまで現代のいろんな問題を解明できているかということだと思いますよ。どんなにいい言葉を使ったって、現実の問題を解いていなかったらダメですからね。(p.120)
(キリスト教も)仏教も科学の洗礼を受けていないから、現代の問題は仏教だけでは解けない。(p.62)
(信心、浄土、往生などの)そういう概念は根本概念ですから、いたるところで語られてきてどうしても手垢にまみれてしまうんです。(中略)それをどうやって取り除くかということが、真宗教団だけじゃなくてすべての既成教団が今直面している根本の問題です。(p.153)
すべて宗教的に救われるということは、言葉に救われるという言語経験のことでしょう。それ以外の目的は何もない。(p.48)
言語と言語を超えたものとの間の正しい関係が真理(p.142)
言語の中にこもっている真理に触れることが大事です。(p.201)
うなづきながらも、"it"を真理と言い換えるのには抵抗がある。それはおそらく、自分にがないからだ。
ハイデガーなどは古代ギリシャへ還ろうとするんだけど、あれはやっぱりアナクロニズムだ。仏教はアニミズムじゃないと思います。(p.113)
日本の仏教は、民間信仰を取り入れながら広まっていった。だから神道と共存できている。アニミズムと科学を橋渡しできないようでは、仏教の未来はないと思う。
  • 君自身に還れ 知と信を巡る対話 本願寺出版 2007 大峯顯 池田晶子 NDC160.4 \1400+tax

(2009-12-09)