哲学の反抗期木田元『反哲学史』のもくじを見て、読むのをためらった。べつに哲学を勉強したいわけでもないし。ところが、まえがきを読むと一般教養科目「哲学」の講義ノートをもとに書いたとある。1年生に負けてなるものかと読むことに決めた。 通読してみると、やはりカントやヘーゲルの個人別の思想はさっぱりわからない。しかし木田さんが整理した哲学史の流れは、おぼろげに理解できた。そして主題である近代ヨーロッパ文化の形成原理はつかめた気がする。その出発点であるソクラテスの話がおもしろかった。 高校の授業で、何か読まなくてはいけなかった。私が選んだのは『ソクラテスの弁明』。とても薄い本で内容もやさしいかと思ったからだ。ところが無知の知なんてばかなことを言ってる。そんなこと高校生だって知ってる。どこが哲学者なんだ。 おまけに毒杯をあおってしまう。哲学をやるには死を覚悟しないといけないのか。それ以来、哲学とは暗いものというイメージができてしまった。 木田は、ソクラテスをアイロニーということばで説明する。アイロニーは、皮肉とも訳せる。嘘つきは自分のついた嘘にしばられ不自由であるが、皮肉屋は自分の発した皮肉な言い回しから自由であると。たとえば、太宰治。 ソクラテスのアイロニーは、教育的効果をねらっている。 無知を装ってソフィストに論争をいどみ、ソフィストの誇示する知識を吟味して、それが真の知識ではないことを明らかにし、その無知を自覚させることによって、彼らに真の知への愛慕(エロースつまり愛知)の念をいだかせようとした。(p38)アイロニーとは、外なる現象(既成の知識、当代の宗教や道徳や国家のあり方…)を仮象として否定し、真の本質へ立ちかえろうとする運動だ。立ちかえった本質さえも仮象として否定してしまうとき、アイロニーは無限否定性をもつ。おのれ自身がいかなる立場にも立たない、いわば無を立場としたのがソクラテスらしい。 それを聞くと、般若心経の「無…、無…」のくりかえしを連想する。 さて、ソクラテスがいっさいの古いものを否定し、弟子のプラトンがそこへ新しいものを持ち出してきた。それこそが哲学なのだが、ではソクラテスが否定し去ったものとは。 そのキーワードが、フュシス(自然)。ソクラテス以前、自然とは人間や神々を含めた万物の真の本性を意味した。 彼らにとって自然とは、昼夜の交替、四季の移りかわり、天体の運動、海の浪のうねり、植物の生長枯衰、動物の生誕や死滅といったすべての自然的運動を支配している原理であり、人間の社会や国家(ポリス)も、そして神々でさえもが同じ原理によって支配されているように思われたのでしょう。(p63)ギリシア語のフュシスは、日本語のムスヒと似ている。人間も自然の一部なのだから、自然に随順して生きるのが真の生き方だ、とギリシア人は考えた。これは、無為自然や芭蕉の「造化にしたがひ、造化にかへる」に通じるものがある。 けっきょく、自分の中に脈々と流れているような感性は、ソクラテス以前のギリシア人とも共有できそうだということを発見したわけだ。ということは、西洋文化形成の指導理念を否定しようとしたニーチェの地点には、はじめから立っていることになる。それにしても、アイロニーにより否定され、そのあとに作り上げられたものが、ニヒリズムによって克服されるとは。 木田の説明によると、「哲学」とはヨーロッパ文化圏に特有の知の様式である。それを、どの文化圏にもある普遍的な知だと思ってしまったのは、私だけでないはずだ。 哲学なんてことばにひっかかりをもちつづけ、今になって教科書みたいな本を読めたのも、むかし読書を強制されたおかげかもしれない。教育のある段階では、きっかけを与える意味で、そういう読書も有効のようだ。
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