闇あがりに本を読む



 木田元という名前はずいぶん前から知っていたけど、近寄りがたかった。新書なら読めるかと思ってトライ。『新人生論ノート』というタイトルだが、三木清とは直接関係ない。しかし、序章で三木やハイデガーは人柄にすこぶる問題があったと書いている。はたして木田氏はいかに、と思いつつページをめくった。

 昭和一ケタ生まれには、おもしろい人が多い。それは戦争とのかかわりがさまざまで、思春期のときに教育制度も旧制から新制に変わり、ドサクサにまぎれた人が多いからだ。木田さんも、そのひとりだった。

 満洲でのびやかに育ち、海軍兵学校を受験する。みごと難関を突破し、江田島でしごかれるが、わずか4ヶ月で敗戦。訓練中に広島の原爆を目撃する。

 戦後は東京でテキ屋にスカウトされ、やがて山形に帰り小学校の代用教員となる。家族を養うために、運び屋もやった。まとまった金ができたので、設立したばかりの農林専門学校へ入学するが、生活は荒れたまま。やがてシベリアから父が帰ってきて、やっと落ち着きを取り戻す。ハイデガーの『存在と時間』が読みたくて、東北大の哲学科に入学する。もう22歳になっていた。

 これだけ好き放題やっても名のある哲学者になれた。父母が優秀だったし、子どものころから少年講談や小説をたくさん読んできたからか。そしてとても凝り性なのだ。それは本の読み方にもあらわれている。
よく考えぬいて書かれた本を1行1行読んでいきながら著者の思考を追思考する、つまり著者の思考をなぞって考えていくというやり方だ。私自身の長い体験からして、よほど特殊な能力の持ち主でないかぎり、考える力を養うには、これ以外に方法はない。(p136)
 ここまで手間ひまかけて読む本に出会えるかどうか。そこが問題かもしれない。
こうした基本的テキストを読むときには、毎日読まなければならない。はじめは1日かかっても半ページか1ページくらいしか読めないであろうが、毎日読んでいると、それが2ページになり3ページになる。ふえてもせいぜい5,6ページどまりであろう。それ以上読むと雑になる。(中略)
これは、剣道の修行で毎日おこなう素振りのようなものである。そして週1度の読書会は、その太刀筋を直してもらう練習試合のようなもの。どうやら学問の習得には、武術の修行と似たところがありそうだ。読書というのはかなりの程度肉体的なものなのである。(p140)
 思想書ゆえ、もちろん原語で読む。この読書会がまた大変で、ウロチョロ3年だから、一人前になるのに10年かかる。

 山田太一「早春スケッチブック」のシナリオから、
なにかを好きになり、夢中になるというところまで行けるのは、すばらしい能力なんだ。物や人を深く愛せるというのは誰もが持てるというものじゃない、大切な能力なんだ。努力しなければ持つことの出来ない能力なんだ。(P129)
 精神科医小西聖子の見立ては、
日本人には珍しいほど自己中心的な人‐利己的というのではなく、自分の内的な関心や思考にしか影響されない人‐だ。忍術への興味が人とはどう違っているとか、自分はどうするべきだったのかとか、社会の流行はどうだったとかそういうことは何も書かれていない。そういうことに関心がなかったという記述さえないほど、そもそも関心がない。しかもパワフルで、かつパワフルな自分にも興味がない。個人としてはすごく元気で健康である。そういう心性の人は、宇宙飛行士になったり、ロボットの研究者になったりするのかと、今まで私は思っていたが、そういう人は哲学者になるらしい。(p220)
 読み終わってみたら、すっかり木田さんのファンになっていた。本書がおもしろかったので、自伝みたいな『闇屋になりそこねた哲学者』も読んでみた。現象学についての講釈がみごとで、私でも読めた。 (2006-08-26)