パパと呼ばないで



 旅行していると、宗教は何か、と聞かれることがある。そういうときは仏教徒だと答える。すると相手は大きくうなずき、納得してくれる。その辺の事情を、内藤正典は次のように説明する。
「日本人には『無宗教』って名乗る人も大勢いるけど、それもだめなの?」
「だめだね。無宗教っていうのはトルコ語だとディンスィズ(文字通り宗教なしの意)っていうけど、これはアテイスト(無神論者)のことになってしまう。俺たちみたいに世俗的な生活をしていても、神様がいないと確信しているわけじゃないんだ。それにアテイストっていうことになると共産主義者だと思われちまうし…」
 タイから来た坊さんが日本でホームステイしたときに、日本人は無宗教なので驚いた。そして日本人の精神について自分のことのように心配してくれたそうだ。宗教がなくてやっていけるのかと。

 内藤は、「日本の家族は、なぜ漂流しているのか。トルコの家族は、なぜ、どっしりと大地に根を下ろしているのか」を考えながら、『「パパ」の国日本、「父親」の国トルコ』を書いた。
明日できる仕事は今日やらない。時間になったら家族のもとへ飛んで帰る。仕事が終わったあとのお付き合いなんていう無駄な時間は費やさない。子どもが病気になったら仕事に行かない。休日は家族とともに過ごすための時間であって、まちがっても仕事や付き合いのために外出などしない。どうしても付き合いで飲みに行かなければならないのなら夫婦同伴で行く。
 こんな家庭で育つ子どもは、真正面から親を見て育つ。そして親たちが年老いていくとき、今度は子どもたちが孤独を味合わせまいとして奔走するのだ。

 その背景の一つとしてイスラム的なライフスタイルがあげられる。
西洋風の生活をしている都会のインテリたちの間にも、ヨーロッパ社会とはずいぶん異なった思考や生活の価値観を持つ人がいる。酒を飲み、お祈りをしなくても、どこかで人間の一生は人智の及ばないアッラー(神)の手の内にあると考えている人ならいくらでもいる。イスラムの大切な徳目である相互扶助の精神や客人へのホスピタリティは、都会人の間にだってしっかり根を張っている。
 家族の絆、夫婦の愛情、そういった今や死語となりつつあるものをトルコという鏡で写し出してくれる。そんな家族について考えさせてくれる本である。
(2004-02-04)
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