惑う中島義道『哲学実技のすすめ』は、ゼミ形式で話が進む。回をおうごとにハードルが高くなり、出席者がだんだん減っていく。 第1部の「からだで考える」では、健全なエゴイズムを育てる、不幸を糧にして考える、あらゆる悪を考える、とステップを踏む。「教育はからだを変えていくことである」なんてどこかで聞いた話だと思ったら、鳥山敏子が出てきた。 そして自分固有のことばを発見するには、 対立を避けようとのコンタンから「わかったつもり」にならないことかな。これをわが国で実行するのはたいそう難しい。(中略)疑いもなく反社会的なことだ。(p66)第2部の「ほんとうのことを語る」では、「きれいごと」を語らない、他人を傷つけても語る、身の危険を感じても語る、と進んでいく。 ぼくが思考の体力をつけよと言いたいのは、このことなんだよ。弱いことを自認してはずるい論理しか生まれない。そこからは、なんの精神の輝きも生まれない。感受性も思考も枯渇してしまう。もし、きみがそういう人生を選びたいというのなら、もう何も言うことはない。(p147)つまり、弱者の論理を振り回すなということか。 第3部の「自分自身になる」では、精神のヨタモノになる、偉くならない、自分から自由になる、でゼミは終了する。 「偉くならない」は「ピーターの法則」に通じるし、「自分から自由になる」ことは「正しく生きる」ことにつながる。 これまでずっと、幸福や救済よりも真理の追求を優先してきたのに、あっさりと転進してしまう。 ぼくは哲学の名において、次第に世界のあり方を問うことより「いかに生きるべきか」を問うことに重点が傾いている。しかも、倫理学者たちが議論している難解な理論ではなく、むしろ足元に開けている日常の生活へ向けて問いを発し答えを探り当てることだ。それが「からだ」で考えること、思考の「体力」をつけることだと了解しているんだよ。(p185)あまり私に近寄らないでもらいたい。あなたは、どうぞ哲学者でいてください。
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