正しく生きるとはどういうことか



 高橋洋児の「経済という営みは生きるということのいちばん土台になる部分を受け持っている。それゆえ哲学や文学に先立って真っ先に、生きることの意味を問い得る立場にある」にまったく賛成の私は、『正しく生きるとはどういうことか』というタイトルの本が経済に関する本であってもちっとも驚かない。

 著者は、生物学者の池田清彦である。本書は、善く生きるための原理が書いてある第1部「善く生きるとはどういうことか」と、第2部「正しく生きるとはどういうことか」からなる。前者は、自分なりの規範を決めるという個人の問題を扱っており、後者は、自分の欲望と他人の欲望を調停する問題について書かれている。

 著者のいう原理は単純だ。

人々が自分の欲望を解放する自由(恣意性の権利)は、他人の恣意性の権利を不可避に侵害しない限り、保護されねばならない。ただし、恣意性の権利は能動的なものに限られる。
 能動的なものに限られるとは、他人を愛する権利やアホなことをする権利はあるが、他人に愛される権利とか、ちやほやされる権利はないということだ。現状では平等が保証されていないので、理想的な制度とはどんなものであるか15章以降で考察している。この部分が本書の核心部だ。

 ここでは、国が個々人の生き方に説教する国家のパターナリズムをやり玉にあげている。すなわち国家が個人に対して、社会に役立つ人間になりさいとか、ボランティアをやりなさいとか、援助交際はいけないとか口を出すことが、個人が自立して正しく生きるためには最大の害毒となる。著者の主張は、個人の精神的な自由と経済的な自由を至上と考え、それに対する国家の介入を排するリバタリアニズムに一番近いという。しかし無制限の経済的自由至上主義であるレッセフェール型資本主義は否定している。その点はジョージ・ソロスと同じである。

 ソロスは、株式投資で巨財をなした博打うちだ。その彼が、「資本主義の脅威」(季刊アステイオン)なんていうタイトルの文章を書いている。その主張に耳を傾けてみよう。

 現在世界中で進行している自由放任(レッセフェール)型資本主義を批判している。レッセフェール式の考え方は、人間に完全な情報、知識を持つ能力のあることを前提にしているから、間違っていると。また金融市場は需要と供給のバランスで価格は決まらず、買い手と売り手の思惑で動く。したがってレッセフェール主義者が主張するように市場の規制を撤廃すれば、経済的安定が破壊される可能性がある。同様に、所得の再配分に反対するのも間違いだと指摘している。

 さらに続けて、人間は誤りを犯さざるをえない存在であると相互に認め合い、それを前提に「開かれた社会」というコンセプトを定義し直そう、と言っている。彼が考えている社会は、複数の文化や宗教の存在を前提とした社会である。そのために彼は、大儲けしたお金をもとにして財団を作り、文化事業に乗り出していたのだ。まったく知らなかった。

 さて池田の本に戻ろう。「冨は再配分するべきなのか」という章では、遺産相続を否定し、所得税を廃止し消費税のみにせよと言っている。さらに著作権などの知的所有権は本人一代限りとし相続を禁じている。とくに生物資源に特許をもうけることの禁止、技術革新の速度は遅いほうが社会が安定して人々は幸福に暮らせるという意見には賛成だ。

 しかし私は、経済に関する制限をもっときつくすべきだと考える。とくに所得税に関しては池田の意見に反対で、ソロスを支持する。なぜなら資源と同じように富にも限りがあり、誰かが必要以上に持ってしまえば、おこぼれに預からない人が増えるからだ。まして富の再配分のシステムが十分機能しない国家・地域では、格差はさらに拡大してしまう。ぼったくりを許してしまうと、多くの人に不満が募り、社会が不安定になる。これは例外のない人間心理だと思う。

 経済は、人間生活の基盤だ。それを生き方論として生物学者が提示したところがおもしろい。このような経済原論は、経済学者には書けないのではないかと思う。そしてこの本は経済学者への挑戦でもある。受けて立つのは誰か?
(2000-06-16)