対話を求めると孤独になれるのか?



 たまたま手にした中島義道の本を読んでいて、これまでの考えを少し改めた。
 中島氏の名前を初めて知ったのは、『うるさい日本の私』という日本人の騒音不感症に関する本でだった。

 言葉の無力さを知り尽くしている著者が『対話のない社会』という本を書いた。この本のキモは、思いやりの欺瞞性・暴力を痛烈に批判していることにある。曰く、「思いやりの暴力は、自分が暴力であることを寸時も気づかない点、もっとも暴力的である」と。その実例として、車内アナウンスに対する新聞への投書を紹介している。ちょっと引用できないので、ぜひ本文を読んでほしい。

 他人の親切の押し売りを毛嫌いしていながら、私も同じことをしているのではないかと、少し振り返ってしまった。ときどき立ち止まって自己チェックしないと、自分でやっちゃいけないと言っていることをやってしまうことがある。

 さて著者の主張を少し要約して紹介しよう。
(哲学的)対話とは、各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何ごとかを語ること。
プラトンの「対話篇」にある「パイドン」は、対話の理想形態である。
対立を避けることは、対話を避けることだ。
対話のある社会を望まない人は、真実を求めようとせずに、対話を全身で圧殺する加害者である。
 対話が成り立つためには、あくまでも1対1の関係でなくてはならない。しょっちゅう2人以上で一緒にいると、もうそれだけで他の人との対話の機会をみずから拒否してしまうことになる。とくに女の人に多いと思うのだが、気づいているのだろうか。また対話が成り立つには、人間関係が対等であることが前提だ。だから上司と部下では対話になり得ない。でも本当はそれは思い込みに過ぎないと思うのだが、賛成してくれる人はほとんどいないだろう。

 一方『孤独について』は、いかにして哲学者中島義道が生まれたかという自伝である。御急ぎの方は、序章と第5章を読めば著者の主張の全容が分かる。

 彼の孤独な生活を読んでいて、中島さんていやらしい人だと思った。人生で出会った人は素材としてこころの檻に閉じ込め、引っ張り出しては尋問している。そうとうネチネチした人だ。でもこれが哲学的な態度なのかもしれない。

 30代の後半まで流浪の身だった著者も、今はれっきとした大学の先生で、何冊も本を書く著名人のひとりである。そういう安定した身分でありながら、つべこべ言っているのはずるい。それは『人生を半分降りる』という態度に如実に現れている。「半分降りる」とは、私なら大学を辞めることを意味するのだけど。こういう半端なスタンスでのもの言いは、「清貧の思想」のいかがわしさと五十歩百歩じゃなかろうか。

 それはさておき、書くということについての引用が目を引いた。ヴァレリーの「人はものを書けば書くほど考えなくなる」、高橋源一郎の「もの書きとは、あえて自覚的に傲慢と下品を選びとった人々」などの指摘はずしりときた。

 3冊ともサブタイトルがついている。つけたくなる気持ちは分かるけどやっぱり要らない。なくても分かるタイトルのつけかたをすべきだ。こういうところでセンスを発揮してほしい。
  • 対話のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの 中島義道 PHP研究所 1997 PHP新書032 NDC361 \657+tax

  • 孤独について 生きるのが困難な人々へ 中島義道 文芸春秋 1998 文春新書005 NDC289.1 \660+tax

  • 人生を半分降りる 哲学的生き方のすすめ 中島義道 ナカニシヤ出版 1997 NDC159 \1900+tax
(2000-04-07)


 その後、私の批判について『哲学実技のすすめ』の中で反論している。はたして成功しただろうか。

(2004-05-30)
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