タイトルのフレーズに覚えのある方はいるだろうか。
古典の授業で呪文のように唱えさせられたことがあるのではないかと思うのだが、「(人が) いる」という意味の単語で、それぞれ敬意の程度が違う。「ある」「おる」「侍る」「在すがり」とならべていけばなんとなく雰囲気はつかめるだろうか。「おる」「侍る」が身分の高い人に使われないのは見当がつくと思う。
他に、「ぞなむかや連体」「こそ已然」とかいう係り結びの対応呪文もあった。
ということで、最初の話題は「
ある」。
何かが存在することを、英語では be 動詞が、ドイツ語では sein が、フランス語では etre が担当している。
日本語では 2 つの単語があって、基本的には、物なら「
ある」、生物なら「
いる」が担当することになっている。ま、「ビルが建っている」とかいう表現もあるが、これは話が別なので無視する。
さて我が秋田弁を振り返ってみると、例えば「
言ったった」という表現が思い浮かぶ。意味は「言っていた」である。
「
言ったった」を丁寧に言って分解してみると、なんと「
言ってあった」となる。
驚いてばかりもいられないので冷静に考えてみると、秋田弁では
「いる」が使われないような気がする。
いや、勿論、「
ビル建ってる」という言い方はするのだけれども、何かの存在を示す単語として「いる」を使うことはないような気がするのだ。
したがって、
「ある」が全ての存在を担っているわけである。
この「
言ったった」だが、人によっては「
言ってらった」となることもある。
「言ってる」を「
言ってら」「
言ってだ」と言うこともあるから、そこからの類推、という可能性もある。
更に、「…って言ってたよ」は「
…って言ってらったよ」「
…って言ったったよ」とも言うが、「
…ってあったよ」「
…ったったよ」と大幅に省略されることがある。例えば、「
父さん、6 時ごろ帰るったったよ」となる。
この辺は、深く追求すると面白いかもしれない。
本人は 6 時ごろ帰ると言っていたにしても、ここのところ仕事が忙しいみたいだから、それは無理じゃないだろうか―と、お母さんが思ったとする。
「
6 時にだば、来ねあんでね(6 時には来ないのじゃないだろうか)」
「
6 時にだば、来ねなでね」とも言う。
キーは「
あん」「
な」である。
この単語 (助詞だろうなぁ) が加わることによって、推測のニュアンスが加わる。
確かに「
6 時にだば、来ねんでね」とも言えるのだが。
違いは、「
来ねんでね」の場合、「
6 時に帰ってくるなんて無理だろう」という意味にも使うことができること。同じ推測であるにしても、話し手はかなり
高確率で起こる、と考えている。
これに対して、「
来ねあんでね」は、「
6 時に帰ってくるのは難しいと思う (けどひょっとしたら帰ってくるかもしれない)」という感じになる。考えた末での発言である可能性が高い。
勿論、イントネーションにもよる。寧ろ、こっちの方が影響が大きい。
今、気づいたのだが、こういう場合、つまり「6 時にここに到着するのは難しい」ということを言いたい場合、東京弁で「
6 時には来ないんじゃないだろうか」とは言いにくくはないだろうか。
通用するとは思うが、誤用とは言わないまでも、くだけた感じがするのだがどうだろう。
もし、ある程度オフィシャルな場で言うのなら、「
着かない」か「
来られない」の方が収まりがいいと思うのだが。
当の息子も、自分で言づてを聞いておいて、
6 時には帰ってこないような気がする、と思った。
「
無理だいんた気するなぁ」
最後は「
いんた」。
これは、「様な」とほぼ等価であると考えてよい。つまり「無理な様な気がするなぁ」。
最初の「ある」はともかく、「
あん」「
な」「
いんた」、全部、正体不明である。
もともとの形はどうなのか、今のところまったく見当がつかない。
何しろ、自立語ではないため、辞書では調べにくいのである。
ま、ここのところ「似てるけど違う」が続いたので、たまには「よくわかんないけど違う」もよかろう。
この項に関する
訂正がある。