不思議な単語がある。
「
あべ」が、それだ。
「行きましょう」という意味である。
もういい加減に行かないと遅刻しますよ、というように催促するときは「
早くあべで」と言ったりする。
何が不思議かというと。
「
あべ」が「行きましょう」「行こう」であるならば、「行かない」とか「行った」に相当す
る
活用形がなければならない。
これが、
ないのだ。
「行かない」は「
行がね」、「行った」はそのままで、「行けば」が「
行げば」であって、「あべね」とか「あべった」という語はない。
あるのは「あべ」だけなのだ。
これは一体どうしたことなのだろう。
もう少し深入りしてみよう。
前に出した「
長まる」を、「ちょっと一休みしませんか?」という意味で使おうと思うと「
長まるべ」という言い方になる。
「あの人は怠け者だから、もうそろそろ横になって休みを取るだろう」という意味でも「
長まるべ」という。
この「
〜べ」は、どうやら標準語の「〜ろう」と同じように、勧誘と予想の意味を持っていそうだ。
だが、「
長まるべ」が「
長まる」+「
べ」で、
終止形+「べ」であるのに対して、「
あべ」は「あ」+「べ」であって、「あ」が終止形とは考えにくいから、
こっちの線は関係なさそうだ。
意味は、最初に言った通り「行きましょう」である。つまり「
あべ」と言った時は、まだ「行って」いない。
だが、同じように「これから行く」というケースでも、半ば独り言に近い「さてと、そろそろ行こうかな」では、「
あべ」は使わない。
つまり、
一人で行くときには「あべ」は使えないのである。「
あべ」はあくまで「行きましょう」であって、「行こう」ではないのだ。
何となく方向が見えてきたような気がする。
「あべ」の正体は、「行く」ではなく、「一緒に何かをしましょう」なのではないだろうか。
では、『角川新版古語辞典 (1989 角川書店)』。
「あふ」を引くと「合ふ・会ふ・逢ふ」で、「二つの方向から近づいてきて一つになる/主体になるものが、一つの所 (また同じ時に) 他のものと一緒になる」という意味が出てくる。
ちょっとニュアンスが違うが、「一緒に」が引っかかったではないか。
今回は、ここまでだ。
「
あべ」が、「一緒に何かをしよう」という意味の「合おう」あたりの変化したものではないか、という推測を得ただけである。
残念ながら、これ以上のことは追跡できない。他に似たような例がないのである。
またまた問題提起だけで、謎解きのないままに終わる。
このページをご覧になった本荘の方から、「
歩むべし」の変化したものではないか、という指摘があった。
なるほど! 「歩む」+「べし」という2語からなるのであれば、活用形を持たず、「
あべ」の形しかないのも納得が行く。
ただ、一つ難点があって、「(俺と一緒に) 行けばいいのに」というとき、「
あべばいいべせ」ということがある。他の形が無いのに、仮定形だけはあるのだ。「
あべ」が「歩むべし」から独立して、動詞的な側面を獲得したため、と考えられないことはないのだが。
いずれにしろ
「あふ」が「あべ」に変化したという線は非常に弱くなったと考えていいだろう。
(970420 加筆)
さらに、DYO@gadget.ne.jp さんから、「歩む (あゆむ)」ではなくて「歩く (あるく)」ではないか、という意見をもらった。「歩く」を「
あぐ」というから、つながるではないか、ということだ。ふむふむ、それも一理ある。
ただ、これもやはり、「
あべばいいべせ」の問題には突き当たるが。
(970831 加筆)