「れる・られる」という助動詞がある。
夕べ、「ら抜き言葉」の話をしたけれども、可能の意味を持つ助動詞である。
だから、「食べることができる」は、標準的には「食べられる」といい、「食べることができない」は「食べられない」と言う。
和英辞典で「可能」を引くと、“
able”,“
possible”,“
capable” あたりの単語が出てくる。
なんでこんなに、と思って良く見ると、それぞれ「優れた能力がある」「可能性がある」「ふさわしい」と、微妙に違いがある (『プログレッシブ英和辞典(
小学館)』)。
残念ながら、本邦の標準語でこれを言い分けるには、今、鍵括弧付きで言ったような難しい表現を付け加えるしかない。
秋田弁?
あるに決まってるじゃないですか。
水泳を例にしてみる。
「スイミングスクールに通ったので、泳ぐことができる」は、「泳げる」だ。多少の訛りはあるかも知れないが。
「天気もいいし、波も静かだから、泳ぐことができる」は、「泳ぐにいい」だ。
「ずっと山育ちなので、泳ぐことができない」は、「泳げね」だ。
「昨日からの雨で海が荒れているから、泳ぐことができない」は、「泳がいね」だ (「泳がれね」の音便である)。
「
泳ぐにいい/
泳がいね」が示しているのは「
状況が許すかどうか」であり、本人が金槌なのかそうでないのかは問題になっていない。「
泳がいね」といった場合、たとえ
フジヤマのトビウオだろうが、
バサロ泳法だろうが、泳げないのである。
「
泳げる/
泳げね」は、万能選手であり、状況・本人の能力、どちらが話題になっていても使える。標準語には、この表現方法しかないわけだ。
更に。
海に遊びに出かけようとしている子どもに、母親が「
風、強ぇがら (つぇがら)、泳がいねよ」と言ったとする。これまでの知識を用いれば、「風が強いから、泳ぐことはできませんよ」と状況を説明している、と解釈できるが、これは間違い。
正しい意味は、「風が強いから、泳いじゃ
駄目よ」である。
「
泳ぐにいい/
泳がいね」が「状況が許すかどうか」を述べているのだから、その否定は「
状況が許さない」であり、これが「
してはいけない」となるのは、ごく自然なことだ。
禁止表現としては弱く、このお母さんの言うことを聞かないで海に入ったことがばれると「
泳ぐなって言ったべ!」と
ごしゃがいる (怒られる) ことになる。
ここで、他の方言や古語との比較ができれば、話が厚みを増すのだけれども。
あ、津軽弁で「駄目」ってのを「
まいね」って言うけど、どういうことなんだろうなぁ。
補追:
証拠写真。
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米内沢 (よないざわ:秋田県森吉町) の道の駅の洗面所に貼ってあった。「この水は飲まれません」とある。(970510 加筆)
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補追2:
東京の紀伊国屋書店で「
この階段では 4 階には行かれません」という看板を見た。
これは、例の「ら抜き言葉」に連なる変化 (混乱) の一端であると考える。秋田弁で「れない/られない」が禁止をあらわすのとは、出自が別であろうと思う。
ただ、この点を考えると、上の「補追」で挙げた「この水は飲まれません」が果たしてどちらの要素が原因で発生したものか、ちょっと怪しくなってくる。
(970518 加筆)