秋田テレビの「
秋田人物伝」という番組で遠藤熊吉を特集していた。小学校の教師から校長になって言語教育をし、西鳴瀬村 (現在の横手市増田) が「標準語村」と呼ばれるようになったきっかけを作った人である。
実は十年ほど前にも
取り上げている。このときは
秋田魁新報が紹介していた。
そのときに抱いた違和感がまた蘇ってきた。
遠藤熊吉の意図は、「標準語は標準語、方言は方言」で、使い分けができればいい、というものであったらしいのだが、この番組にしろ、魁の記事にしろ、使われている表現がその意図を反映していない。
東京の言葉を「
いい言葉」「
きれいな言葉」「
澄んだ発音」などと言っている。対する秋田弁は「
悪い言葉」「
汚い言葉」「
濁った音」ということになるわけだが、それって「標準語は標準語、方言は方言」とは正反対の方向だよな。
あるいは、東京の言葉が「いい言葉」で秋田弁は「悪い言葉」という教育を遠藤は否定しようとして、言葉の面では効果を上げたものの、当事者たちの意識までは改革できなかった、ということだろうか。
明治 33 年に使われていた指導書「東北地方教科適用『発音と文法』」が映されたのだが、画面の片隅に「
ブッシュマン種族の如き」と今ではとても使えない表現が目に入った。明治期に「ブッシュマン」っていう単語が使われていたことにも驚くが、まぁ、これが、方言 (特に東北方言) に対する歴史的な見方である。それはもう絶対に抜けないのかもね。
十年前の時には、西成瀬出身の人から割ときつい調子のメールをもらった。PC 入れ替えを繰り返したせいでメールがなくなってしまっているのが残念なのだが、魁の記事が「標準語」という語を使っていることに異を唱えたのに対して、「西成瀬では『標準語』とは言っていない。『共通語』だった」と言う。
が、残念ながら、今回の番組でも「共通語」という語は一度しか出てこなかった。ずっと「標準語」である。
繰り返しになるが、ここのホームページでは「標準語」という語を使っている。その方が通りがいいからである。おそらく「全国共通語」というのが正しいのだと思うが、一般的にはこなれた語であるとは言い難い。「標準語」は実態としては存在しないし、「標準」という語が持つ、権威主義的、上意下達的な臭い、「方言は規範から外れた劣ったもの」という考えも嫌いではあるが、やむをえない。
遠藤の時代に戻れば、「標準語」というものがあると考えられ、あるいは、作ろうとしていた時代なので、当時「標準語」という語が使われるのもまたやむをえない、というか当然である。
が、「『標準語』って語は不適切なんじゃないか」という考えは以前より広まり、テレビ番組などが言葉について扱う際、特に NHK あたりは慎重になる時代に、「標準語」という語だけが使われている、という点には留意が必要なんじゃないのかな。
番組にも出てきた「西成瀬地域センター」の「
一音を一語を」にある「西成瀬の話しことば教育」の中の「
遠藤熊吉の没後の標準語村」で北条常久氏が「遠藤熊吉の死後、彼の標準語教育は確実に伝承されなかった」と書いている。その結果なのかもしれないなぁ。
このホームページには、2005 年に行われた「増田町ことば調査 2005」という調査の
報告がある。監修しているのは、当時、
秋田大学に在籍していた
日高水穂氏だが、この調査では「共通語」という語が使われている。
もう一つ疑問。
鳴瀬村で標準語教育を受けた人は、全国どこに行っても言葉に困らなかったという。
「なるほどね」と思いそうで、現に俺もこの番組を見るまでそう思ってたのだが、よく考えると、標準語で話が通じる地域は、そのベースとなった東京弁が話される地域、つまり東京だけである。それ以外の地域の人々は、秋田がそうであるように、各地の方言を話して聞いていたはず。なんで標準語で意志の疎通ができたんだろう。あるいは、秋田でだけ標準語教育が遅れていたのか。それとも、自分のことを話す分には苦労しなかった、ということだけを言っているのか?
それとも、東京だけを見てる?
遠藤の功績を示すものとして、その活動が国語の教科書に載ったことがある、ということが紹介されていた。
チラっと 1p 映っただけなのでどういう扱いなのは不明なんだが、時期が昭和 33 年ってことを考えると、かなり微妙。方言をなくしましょう、っていう方向に利用されちゃったんじゃないかなぁ、という気がする。
俺が嫌いな言葉の一つに「素直」というのがある。
「素直」自体が嫌いなのではなくて、「異見」を表明すると、「素直に考えろよ」などと言われる、この「素直」である。
この語には、「見たまま、聞いたまま」のほかに「ひねくれてない」というような意味もある。
大辞泉は「性質・態度などが、穏やかでひねくれていないさま。従順」としている。
つまり、「素直に」と言った場合、それは「お前は不穏で、ひねくれていて、反抗的だ」という意味を帯びる。本人にそういう意図がないとしても、そういう風に受け止められても文句は言えない、そういう語である。
それと同じ意味で「よい言葉」というのは慎重に扱わなければならない表現だと思う。