秋田では
竿灯が始まっている。
今年の夏休みは、派遣先が親会社に合わせた関係で、一週早くなった。8/3-11 の九連休。
もう二日経過しており、すでに入っている予約があることを考えれば、あっという間に終わるものと考えられる。計画に入ってはいるもののできずに終わることも多数あるだろう。今の感触では風呂掃除、換気扇掃除あたりが危ない。
タイミングの悪いことに、去年の秋と今年の春の
情報処理技術者試験に合格して会社からお祝いが出ていて、かつそれと同じくらいの額のボーナスも出ていて、ちょっとお金持ち気分になり、
エレキギターとエフェクターを買ってしまった。さらに時間が減る。楽しいけど。
なんの話だっけ。
そう、竿灯シーズン。
秋田駅はしっかり観光ムード。食堂で飯食おうとしたら、後ろに老婦人四人が座った。
どういう人たちだかは不明。
地元の人がフラっと飯食いに来たにしてはいい服を着てるし、観光客にしては軽装すぎる。だが、話してる言葉はおそらく秋田弁。あるいは、県外に出た人が竿灯シーズンに戻ってきた、とか?
その人たちが、方言について語っているのに気付いた。
いわく、「秋田は寒いから言葉が短くなる」。
「はじまった (笑)」と思ってたが、なんか面白いので本を読むのをやめて、メモを取りながら聞き耳を立てた。
それを証明する例としては、「さむい」が「
さび」になる、というのがあるそうだ。三音節から二音節だから、確かに短くなっていますねぇ。
次の例は「
おれ」だそうで、これはきっと一人称の「俺」だと思われる。「は?」と思ったが、おそらく女性の一人称「あたし/わたし」との対比だと思われる。秋田では女性も「
おれ」「
おら」と言う。「おら」の方は「あまちゃん」でも使われているが。
二例で語るな、季節で言えば、「あつい」が「
のぎ」とかほかにもあるだろう、とか思ったが、論証は続いた。
仙台では「いい」を「
いべっちゃ」、「そうだ」を「
んだべっちゃ」と「べっちゃ」をつける。それもわからないけど、さらに北上した青森はもっとわからない、と言う。Q.E.D.
これにはちょっと笑った。確かに、その範囲では一貫性がある。
まぁ、「北では言葉が短くなる」というのはよく言われることである。
これについては
こないだ紹介した「
日本語学」5 月号の「ことばの『常識』『俗説』と日本語研究」という特集で、
安部清哉氏が「気候は、言語・方言を作るか?」で取り上げている。
そういうことはよく言われる一方、学者はあまり相手にしない。が、これが合っているのか間違っているのかを検証した論文などはないらしい。だから、正確なところはわからない。
確かに、寒いと口を開けたくなくなる。が、北の人たちはずっと北で暮らしている。当然、その気候が標準であり、体に染みついている。「寒くて口を開けたくない」となるのは、「その標準よりも寒い」ときである。つまり、それが常態なのではない。「寒いから口をはっきり開けない方言になる」は話がおかしい、ということになる。
また、「口をはっきり開けないからと言ってズーズー弁にはならない」ということも説明がある。
ただし、安部氏の記事は、気候が言語に与える影響を否定しているわけではない。
要するに、最初に言ったように、検証がされていないので、少なくとも「北の言葉は、寒いから口をはっきり開けない、言葉が短くなる」というのが正しい、とは誰も言えない、ということである。
北緯 40 度ごときで短くなるというのなら、グリーンランドの人たち
*1は一体どうなる、てなもんで、そう単純な話ではない。
昼時だったので混んできて、なかなか会話が聞き取りづらくなってしまったのだが、次に聞こえてきたのは、「あたしはいい言葉はしゃべれない」という発言。
なるほど、「方言は悪い言葉、標準語がよい言葉」という教育を受けてしまった世代なのか、と思った。
で、冒頭で、どういう人たちだかわからない、と書いたが、それは以下の会話から。
注文を間違ったらしく、それに気づいた時の発話が「しまった」だった。「
さい」ではなく、「しまった」なのである。
もちろん個人差もあるので、「しまった」だから秋田の人じゃない、というのは乱暴である。「北の方言は短い」というのと同じくらい短絡的だ。
でも、あの世代だと、「しまった」じゃねぇような気がするんだよなぁ。
ついで、竿灯は「ねぶり流し」というくらいで、青森の「ねぶた」、弘前の「ねぷた」同様、眠気を払う行事である。
だが、なんで祭りまでやって眠気を払わなければならないのか、というのが疑問だったのだが、
魁に載っていた県民俗学会副会長の齊藤壽胤氏の記事によれば、それは「睡魔」で、魔物なのだ、とのこと。ちょっと納得。
今週は、掘り出し物第三弾のはずだったが、こっちを先に出した。
来週こそ「あさイチ!」を取り上げる予定。