今週と来週は、掘り出しネタで行く。
ちょっと前まで机の上がえらいことになっていた。本や雑誌、新聞の切り抜き、公共料金の伝票などが積みあがっていた。全体に万遍なく積まれているわけではないので高低差があり、最も高いところは掛け値なしに 20cm くらいになった。
骨を折った、ということを書いたが、そのせいで暖かくなっても自転車の練習ができなかった。自転車の練習は前後の準備と後始末を含めると概ね 4 時間、走る距離が長いと 5 時間ほどかかる。半日である。
これがごっそりなくなるので、土日に暇ができる。久しぶりに読書やギターの練習などしたが、それだけではいかんだろう、ということで机の上を片づけた。そしたら、「日本語学 (
明治書院)」5 月号が出てきたわけ。
本来の格納場所でなく机の上なのは、一部の記事が方言に触れており、これをネタにしようとしたからだと推測される。
それを、二か月遅れくらいで取り上げようというわけだ。
先に方言の方。
鏡味明克氏の「アイヌ語地名研究の俗説・定説・補説」。と言っても、アイヌ語は別の言語だが。
アイヌ語がとくに北部の日本語に影響を与えたことはあらためて言うまでもない。特に地名に多く、「稚内」「真駒内」「笑内 (秋田県北秋田市阿仁・おかしない)」などの「
ナイ」が「川」であることを知ってる人もいると思うが、アイヌ語の中でも比較的有名な「
コタン (集落)」「
ヌプリ (山)」を持った地名がないことを取り上げている。
氏の説は、「
コタン」は「古館」「小館」、「
ヌプリ」は「登」「森」に変化した、というものである。
特集ではないが、「日本語の攻防」という連載では、佐藤亮一氏が「東西方言の攻防:明治期から現代まで」という記事を載せている。
「
オンナ」「
サツマイモ」が東日本由来の語だとは知らなかった。秋田じゃ「
オナゴ」だよ、と思ったが、「
オンナ」は関東甲信越の言葉で、その両側が「
オナゴ」なのであるらしい。
一人称としての「ウチ」を首都圏で生育した若者が使う率は、大学生で 29%、高校生で 74%、中学生で 81% と特筆しているが、これはオタク系、もしくはネット系のスラングじゃないのだろうか、という気がする。単に、そういう人がよく使っている、というだけの根拠だが。
ただし、関西弁の伝播は事実らしく、九州へ浸透している例が挙げられている。
茂木俊伸氏の「『正しい文法』に頼らないことばの使い手を育てるために」。
「正しい日本語」という表現に対する嫌悪感は何度も表明しているが、それとこれとはちょっと違う。
おそらく、言語は文法というルールに則って構築されているのだ、と思っている人が多いのであろう。学校でそうやって教えてるのだからしょうがない面はある。
実際には、文法では説明できない現象が、例外と言うには多すぎるほど見られる。したがって、文法として公表される説は一つではない。
自然言語ってのはそういうもんだ、ってことは、どっかの段階で教えておかないといけないのかもしれない。
それともう一つ、自分の外に確固としたルールがあってほしい、と考える弱さの賜物でもあろうと思う。
佐藤稔氏の「日本人の命名について」。いわゆる「DQN ネーム」に関しての記事。
ああいうのをみると不快になるので、新聞や雑誌の「お誕生日おめでとう」などのコーナーは見ないようにしてるのだが、ほんとにすごいな。
世の中には寛容な人もいるようで、どんな名前であれ親の愛情の発露、とかいうことも耳にする。だが、「
凸」で「
テトリス」と読ませる名前もあると聞く。そこに親の愛情はあるだろうか。
そういうのは別格としても、ああいうやつの大半は、「普段、本を読まない人が、命名の必要に迫られて、慣れない国語辞典や漢和辞典を誤った形で駆使した結果」ではないか思っている。
たとえば英語を習い始めたばっかりの人が、和英辞典を駆使して英文を書いたとする。大概は、ぎこちないと言えば褒め言葉になるような、めちゃくちゃな英文になる。それと同じにおいがする。
個人の自由というのも的外れ。名前は、読んでもらい、呼んでもらうもので、この記事の表現を借りれば「共有財産」である。自分さえよければいい、というものではない。まして、その「自分」が子供ではなく親であった日にゃぁ。
尤も、この記事に載っているのは、「
権兵衛」という
女の子であったりして、そういうのとは次元の異なる DQN 加減なのだが。
机の上は、「日本語学」を掘り出したところで止まっており、きれいになっていない。
骨折が一段落し、自転車にのれるようになったので、週末は必ずそれに半日使うようになってしまったからである。
だが、スタートが遅すぎた。今月末の大会はなんかやばそうである。