地震関連の本・雑誌からの文章、やっと二冊目。
「
日本語学」 2012/7 月号の特集は「ことばのハンドブック」。
2012/5 月号の
ときに竹田晃子氏の取り組みに触れたが、こちらでは
岩城裕之氏が「医療従事者のための方言の手引き」という記事を書いている。
まず目に留まったのは、「
方言返り」という語で、認知症の患者が、それまで使っていなかった (おそらく子供の時などに使っていた) 方言を使い始めることがあり、それを指すらしい。
富山大学で看護実習を終えた学生に、覚えておくべきだと思う俚言形を訪ねている。上から、「
だやい (だるい)」「
うい (つらい)」「
なーん (いいえ)」あたりはわかるが、「
かたい子 (まじめな子)」「
けなるい (うらやましい)」がなぜ出てくるのかわからない。ストレス方面の話だろうか。
この手引きは現場での使い勝手を最優先にして、一枚の紙を折りたたむ形にしている。開いた場所に何を書くか、ということも細かく検討されている。詳しくは
こちら。
紙には一覧性がよいなどのメリットがあるが、一方、カナで正確に表記しきれない (書こうとするとどうしてもバリエーションが生じる) 方言をどう網羅するか、という問題がある。これには電子データが都合がいいが、それはそれえ、災害現場では活用できるとは限らない、という問題がある。
この記事は最後に、こんなエピソードを紹介している。老人福祉施設の入所者が、自分の方言は介護士にはわからないかもしれない、と思って説明する、という形のコミュニケーションが成立するらしい。想像するとほほえましく感じられるが、そういうメリットは、
前回、触れたように、方言をなくしてしまった場合には失われることになる。災害直後で怪我人があふれている時なら、「全員が標準語だったら」と思うのも理解はできるが、その後の場面では無視できない要因ではないのだろうか。
地震から離れるが、「日本語の攻防」という連載は「方言と標準語」という記事である。
「方言マーカー」という観点が提示される。これは、「『方言らしい』と感じさせる言語構成要素」のことである。
面白いのは、関西方言における「言う」のウ音便の使用率が、ほかの語よりもとびぬけて高い、という調査結果。つまり、例えば「買う」であれば、標準語の「買った」に対応する形は「
買うた (
こうた)」だが、これの使用率はご多分に漏れず年々低下している。が、「
言うた」は使用率が高い。ほかの語では 6% 台なのに対して、「
言うた」は 20% に上る。
これは、この記事では「ト抜け」と言っているが、伝えようとしている発話内容を示す助詞の「と」の省略と関係があるらしい。
関西では「寒いと言っていた」を「
寒い言うてた」という風に「と」を省略することがあるが、これと「
言うた」というウ音便の登場は高い相関を示すのだそうだ。
*1
関西弁のアクセントは「方言マーカー」であり、関西弁話者はこれを維持しようとする傾向があるそうだ。そのアクセントであれば、語彙や文法が標準語風になっても関西弁に聞こえるからである。
この二点はなかなか面白い。
上で電子データについて触れた。
俺の知人で、電子書籍にはまって熱く勧める人がいるのだが、AC 電源がないと使えないものを、震災後に買おうと思った理由が俺には理解できない。
震災でケータイやスマフォが活躍したことは否定しないが、俺は間の悪いことにバッテリー残量が少なくなっていて「今日、帰ったら充電しないとな」と思っていた矢先に停電となり、妹夫婦と連絡がとれたところで切れてしまった。同じような感じだった人、あるいは、連絡を取ったり、何が起こっているのかを確認するために使っているうちに切れてしまった、という人も少なくないはずである。
乾電池は備蓄できるが、充電式のバッテリーは切れたらアウトである (充電池自体の備蓄は可能だ)。頻繁に充電しなければならないものは「地震の時にも使える」とは言えないと思う。
あと、電子書籍は安い。ハードは何千円もするが、書籍自体は紙の本に比べるとかなり安い。紙が必要なくてデータのやり取りだけで済むのだから理解はできるが、俺が \1,000 の価値を認めて購入したものを、\100 で買ってる人がいるとかなり不愉快である。
災害時に読書? という意見もあろうが、それについても後で触れる。