Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜



第853夜

もう二年、まだ二年 (4)



 東日本大震災に関連した本についての話を続けているが、ここからは言語関係の本ではないので、方言の話題は大幅に減る。

 まず『言葉に何ができるのか 3・11を越えて―― (佐野眞一・和合亮一徳間書店、2012/3/21 初版)』だが、ここで「ふるさと」について触れている。
 和合氏のところに取材に来た東京の記者が、「ふるさとって何ですか」と聞いたという。
 これは、「あなたにとって『ふるさと』とは」と聞いたのではなく、本当に「ふるさと」というものが理解できないというものだったらしい。
 同じ違和感を前にも持ったことがあって、そのときは確か「田舎」という語だったような気がする。自分には「田舎がない」と言うあれ。
 これもおそらく、「人口密度の低い場所」という意味の「田舎」ではなく、「自分が帰る場所」という「ふるさと」と同じ意味だったと想像される。
 俺も冷淡という点では人後に落ちないので、「帰りたい土地」というのはない。おそらく転勤族ならぬ転校族で、幼稚園ふたつ、小学校ふたつ、あと中学、高校、大学と来るから、おおよそ三年に一回のペースで環境が変わったのが理由ではないかと思っている。
 その場合、帰る場所は親兄弟がいる場所ということになる。
 それではいかんのか、という違和感なのだが、話が長くなってしまった。

 あるいは、和合氏が福島に残っていることが理解できず、氏が繰り返す「ふるさと」という言葉になんか特別な意味がある、と思ったのかもしれない。
 これについては、「避難すればいいのに」と言われたことを和合氏が何度か述べている。避難できない人がいる、ということは、避難することを検討しなくて済む人には理解できない、ということなのだと思う。実は俺も昔、なんかの自然災害でそんなことを思ったことがある。客観的には、抜本的な解決としてはそこを出るしかない、と今でも思うわけだが、それはあくまで「客観的」な意見で、それで失うものはおそらくとてつもなく大きいのである。

 この「客観性」による暴力の最たるものが「がんばれ」ではあるまいか。
「がんばれ」は「現にがんばってる人」に使ってはならない言葉だが、それに気付いてない人はまだいるようだ。ギリギリまでがんばったことがないのかもしれない。
 さすがに「がんばろう」も少なくなかったようだが、それが、頑張らなくてもいい人の口から出たとしたら、それはやっぱり「がんばれ」と同じ意味を持つのじゃないのだろうか。

 もう少しこの本で印象的な表現を取り上げると、福島と言うか東北のポジションについて、「親に愛されていた子供だと思っていたのに、実は親に愛されていなかった」、「べろっと剥がれた」「つまり、これが本当なんだ」。
 古くは金、下がって米、安い労働力の供給地と位置付けられてきた東北が、「愛されていた」と思っていたのか、という気はするが。

 それに関連して、もう一つ。
 佐野氏が紹介してるエピソードだが、3/12 に浪江町の牧場にパトカーがやってきて、現状を中継するためのパラボラアンテナの設営を始めた。ところが作業の途中でバタバタと撤収を始め、「あなたたちも早く逃げなさい」と言った。
 それに続くのが、「国家は嘘をつきます」。
 日付から言って、この時に水蒸気爆発が起こっているのだと思う。

 つまりそういうことである。
 我々は、震災対応で支持を失った政党が野党となり、次に与党となった政党が、与党になった途端、原発の新規建設を口にする国で生きている。
 東北だろうが、それ以外の土地だろうが、愛されてなどいない、と考えるべきなのかもしれない。
 もちろん、年末の選挙で、有権者の 1/3 が投票せず、見ず知らずの他人に自分と周囲の人々の未来を丸投げした、という現実はある。
 自分しか愛せない人は、人からも愛されないし、愛してもらえる社会を作ることもできないのかもしれない、とまるでJポップの歌詞のようなことを言って、今週は終わり。

 振り返れば、方言要素は一つもなし。
 全然気にしてないけど。




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