東日本大震災に関連した本についての話、二か月目に突入。何か月もかからない、って言ったような気がするが。
今週は『
ふたつの震災 [1・17] の神戸から [3・11] の東北へ (
西岡研介・
松本創、講談社、2012/4/19 初版)』。
先週、方言要素がなかったので、今週は先にそれを。
「
きどころね」は「着所寝」で「居眠り」。「服を着たまま、その場で寝る」ということらしい。東北から北関東にかけて使われているようだ。『語源探求 秋田方言辞典 (中山健、秋田協同書籍)』は、江戸時代に「居所寝」という語があり、その変化したものではないかとしている。
ふたりは山浦玄嗣氏を訪ねているのだが、そこで「
つみづみしい」というケセン語を教えてもらったらしい。「自分の罪深さを申し訳なく思う」という意味だそうだ。
「
いごく」という言葉も登場する。「動く」だが、体が動かせなくて避難できない人のことについて言及した時。
「
わがんね」は「ダメ」で、「
出ねばわがんね」が「出なければだめ」「出なければならない」という意味になる、というのはちょっとよその人には理解しづらいかもしれない。秋田では「
やづがね」「
やざね」という形があるが、こっちは「埒が明かない」である。
芦屋から陸前高田に来て震災にあった人がいる。引っ越してきたばかりの時には、言葉に苦労していた、ということが書かれている。
これは方言ではないようだが、「仮末代」という言葉が出てくる。一時的に決めたことが結局、なりゆきでずるずると残ってしまうことを言うらしい。
さらに英語。“NIMBY”は“Not In My BackYard”の頭字語で、いわゆる「迷惑施設」などについて、必要性は認めるが自分の近所には建ててほしくない、という姿勢のこと。
ふたりは閖上の人を訪ねているのだが、その人に寄れば、津波が来たのは 15:50 頃だそうである。
こないだの 3/11 にも全国で黙祷が行われていたと思うが、俺も若干の違和感があった。多くの人々は津波で亡くなってるわけだから、14:46 ではないのだよな。まぁ、亡くなった時刻でなければならないってものではないんだけども。
俺自身も阪神淡路についてはそうだったし、この関係の本を読んでるとそういう表現はあちこちで目にするのだが、「他人事」という問題。
それについてケチをつけるつもりはなくて、やっぱり朝と夜のニュース番組でしか目にしない、という状態であれば、どうでもいい、とまでは思わないとしても、つきつめていくと結局は「他人事」なのである。
で、あ、っと思ったのは、
八戸の被害。この本に寄れば、死者は一人だったそうだが、港は甚大は被害にあっている。ニュースが取り上げるのは福島・宮城・岩手が大半で青森が登場することはほとんどない。世の中で、八戸が東日本大震災の被災地だという認識を持ってる人はどれくらいいるんだろう。
ケチをつけるつもりはない、と言いながら、作られてしまう「他人事」もある、と思った。
震災直後の自治体の動きを市町村合併と絡める意見はあちこちで目にする。
この本では二通りの例が示されている。
合併は、人員削減・行政の効率化が目的だったわけだから、今回のようにとにかく人が要る、というケースではそれが覿面に利いてくる。
一方、自治体の面積が大きくなっているので、一自治体の中で被害の大きなところと小さなところができ、後者が前者を支援できる、というプラスの面もある。
役所への不満については、この本だけでなく多数、目にするが、一面的な見方をしてはならないわけだ。
一番驚いたのは、神戸市では、震災を経験していない人の割合が四割を超えた、ということ。
震災直後には相当の人が神戸を出て、落ち着くと、戻ってくる人と新しく転入してくる人も相当だったそうで、それだけ人が動いたってことではあるのだが、たった 15 年で四割というのはすごい話である。
とか言ってる間に淡路島近辺で大きな地震。
震度の割に被害が少なかったのは何よりだが、それにはあの震災の経験が生きたと聞く。受け継がれるべきものはひとまず受け継がれている、ということだろうか。
「想像力」という表現が出てくる。
「想定外」という言葉が何度も使われたが、そう言ったことがどう受け止められるか、という想像力の欠如、という文脈である。
これで思い出すのは、今年の 3/10 に新聞に載った政府広報で、「あなたや大切な人の身を守るのは『想像力』です」というフレーズ。
「〈いま〉〈ここで〉大地震が起きたとしたら」ということを想像することが重要、という意味で、それは確かにその通りなのだが、本当に想像力を働かせるべきなのは、現在・過去・未来の被災者の側ではないのじゃないか、と思った。