前に書いたとおり、先週は
ゴダイゴのライブで上京した。
天候の変化の激しい週末で、出発した金曜朝の秋田は雨、太平洋側は好天で、空からも京急からも富士山が見えた。
ところが明けた翌日は東京でも雨で、雨脚も結構強く、相武台駅前についたら、駅から出たくないって感じ。案の定、会場の
ハーモニーホール座間に着いたら靴の中はぐっしょりで、風邪引かないかな、とか、このまま豪雨になって帰りの電車が止まったらどうしよう、とか心配してしまった。
幸い、そんなことはなく、日曜朝には東京も晴れたのだが、今度は秋田で雪。初雪だった、というのを知ったのは後のことだが、秋田空港に着陸したら小さい白い粒がハラハラと舞っていて、ついに来たか、と思ったことであった。
で、
ANA の機内誌「
翼の王国」の「おべんとうの時間」。
今回は、
熊本県球磨村の渡し舟の船頭さん。姓は地名と同じ「くま」さんなのだが、「球广」と書く。あぁ、この字もちゃんと JIS にあるんだ。
その前に、「
プレジデント」から。
「検証/豪雨水害」という記事がある。こちらは奈良の
十津川村を取り上げたものだが、どちらもこの夏の水害について触れていて、こういうのが続くこともあるのね、と思ったので。
尤も、方言はひとつだけで、「山が
クエる」。「くずれる」。ググったところ西日本で広く使われている模様。
「
デジタル大辞泉」では『荒野聖』を引いている。つまり、「辞書にも載っている語」ではあるのだが、全国的に使われているわけではないので、方言ということに。
ネットでは、やはり水害に触れている文章が多くヒットするのだが、「山崩れ」「土砂崩れ」という場合にしか使われない、という記事も散見される。この場合、「生活態度」「天気」「高額紙幣」などは
くえないようである。
水害の記事が多いのは、「プレジデント」で言っているように、豪雨災害が増えていることと関係あるのではないだろうか。年間雨量は変わっていないが、降る回数は減っている、という統計もあるそうで、つまり、一回の雨量が増えている、ということである。となると、橋や防災施設の設計思想を変える必要がある、らしい。
「おべんとうの時間」に戻る。
球广さんの話も、この夏の大雨から始まる。一ヶ月、水が引かなかったそうである。山のほう、どれだけ降ったのやら。
この人の話で最初に目を引いたのは、その船で渡る子ども達のこと。球广さんは、「
高等学校に通う子ども達」と言っている。この「高等学校」。
俺の感覚でも、「高校」と略さず「高等学校」と言う人は年配の人に多い様な気がする。あ、球广さんは 84 歳。
おそらく、短縮したくなる、あるいは、短縮しなければならないほど、頻繁に口にする単語ではなかった、ということであろう。
大阪教育大学の
資料 (PDF) に寄れば、昭和 25 年の高校進学率は 42.5% だったというから半分以下、大雑把に言えば 7 人に 3 人である。
年齢から考えて、旧制高校を指している
*1可能性もあるが、その場合、進学率は全男子の 1% にも満たなかったそうだから (立命館大学の
資料)、通ってる人を探す方が大変である。おそらく、言及する機会は非常に限られているはずである。
もう一つは「
ば」。九州方言ではよく耳にするが、ちょっと使い方が違うような気がして。
「
ご飯ば詰めて」「
渡しば始めた頃」がおそらく普通の形で、「を」を同じであろう、と思われる。
が:
(高校生達は)
朝わしが渡して、電車で人吉や八代に通っとです。今年は、1 年生の男の子ばひとりですたい。
この「
ば」は「を」ではないような気がする。この文の主語が話し手であれば、「今年は、その男の子をひとりだけです」という解釈もできるが、文脈ではこの文の主語は話し手ではないように思われる。
もう一つ:
ああ、電車ば停まりましたわ。
この「
ば」は明らかに「を」ではない。
「が」の聞き間違いだろうか。二回も、とは考えづらいし、この球广さんの話し方からして、ここに標準語的な「が」がはさまるとも思いにくい。
因みに、ライターの阿部直美氏は群馬出身 (フジフイルムの
記事による)。
水害は大昔からあった。人間は、それを回避あるいは防ぐために努力して技術革新を進めてきた。
だが、例えば地下街では雨の心配をする必要はないが、大雨の場合、階段などから水が入ってきてその重さでドアが開かなくなり、閉じ込められてしまう、ということが起こる。これなどは、技術が作った新たな災害である。
ゲリラ豪雨をはじめとする昨今の大雨が温暖化によるものだとすれば、それは悲しいイタチごっこ、自分の首を絞めている、ということになりはしないだろうか。