工藤真由美・八亀裕美両氏の『
複数の日本語 方言からはじめる言語学』を紹介中。
形容動詞のポジションには難しいものがあるらしい。
語幹部分が名詞になる形容動詞が多い、というのが一つ。
*1
外来語の形容詞は、ごく一部を除けば形容動詞として取り込まれるため、増加量が形容詞にくらべて異様に多い (生産性が高い) ことも、形容動詞の立場を微妙なものにしている。
*2
前にも書いたが、学校文法では当然のように挙げられる品詞ではあるが、形容動詞の存在を認めない説もある。
本書では、方言調査では、形容動詞の方言形が見つからないことが多い、とされている。敢えて聞いていくと、「使うことは使うが、方言っぽくない」という返事がかえってくるらしい。
秋田弁で言うと、形容詞も形容動詞も「活用しない」という点が特徴的である。例えば「赤い」は「
あげ」だが、終止形も連体形も「
あげ」で、仮定形も「ば」こそつくものの「
あげ」のままである。
形容動詞のほうでも、「真っ赤な」が「
真っ赤だ」だが、もうどの活用形であろうが「
真っ赤だ」のみである。
8 章の小見出しが直接的でよい。
「文法は規範ではない」である。
人工言語を別にすれば、文法は言語よりも後の存在である。なんらかのルールを基にして言語が構築されたのではない。後から言語を研究してみてみて、「こんなことらしいよ」というのが文法である。そのため、例外が山ほど出てきて「例外」とは言いがたいことになるし、ルールに一貫性がない。
*3
だから、「間違った日本語」「乱れた日本語」とかいうことをあんまり声高に言うべきではない。
我々は、文法を守るために話をしているのではないのである。
*4
疑問文の話。
通常、疑問文の最後は上昇イントネーションとすることになっている。
宇和島で、疑問文であることを示す形があるため (正確には、断定であることを示す形があるので、終止形が疑問の意味を持つ)、上昇イントネーションにならない、というケースが紹介されているのだが、これは秋田でもある。
秋田の場合、その形すらなく、ひょっとしたらよそから来た人には、自分が何を言われているのか解らない、ということもあるのではないかと思う。
よーく内省してみたら、断定の場合は、平坦になるようだ。上昇もしくは下降で疑問文と言うことになる。
明日、行ぐ↑ 質問
明日、行ぐ→ 断定
明日、行ぐ↓ 質問
上昇の場合の方がいくらか丁寧になるような気がする。下降での質問は、ぞんざいと言うか、親しくないと使えないんじゃないかな。
確認のための質問か? という気もしないことはない。
話は変わるが、“?”について。
これ、「クエスチョン マーク」という位だから、疑問文であることを示すマークである。
だが、十数年くらい前から、つまり、ネットでいろんな人が文章を書くようになってから、疑問文ではないのに“?”が使われるケースを見るようになった。
「
〜だと思うのですが?」
という形である。おそらく、上昇イントネーションと同一視しているのではないかと思う。
その理屈はわかるのだが、こういう表記がものすごく押し付けがましく感じられるのは俺だけだろうか。つまり、この人は誰かの意見に反論していて、それはいいのだが、返事を要求しているというか、そんなことも知らんのか、というニュアンスを感じるのである。
この章で、「標準語の形態論は貧弱」と述べている。
つまり、非常にシンプルだ、ということなのだが、これは「標準」だからというか「共通語」だからじゃないだろうか。
英語がいい比較材料である。文法性は人称代名詞にしか残ってないし、親称
*5はないし、活用形は少ないし、と、中学で英語をやった後に他の言語を始めようとして、英語にないものが次から次へと出てきて頭を抱えた人も少なくないはずである。このことは、英語が世界中に広まっていったことと併せて考えてみるべきだろう。
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5 章に、「標準語は、かなり人工的に整えたという側面のある言語」とある。
そうしたことを総合していくと、
となる。
前にも書いたが、「昔の言葉が残っている」「由緒ある」という言い方自体、「標準語 (時代と場所は違うが)」の存在を前提として、しかも、それを正しいものと規定した上でのものである。おそらく、方言を、つまり、標準とは異なるものを愛好する姿勢とは相容れない姿勢だと思う。それとも、「標準語が捨てたものを、○○弁は維持している」という自慢と僻みの合成の産物だろうか。
もっと鳥瞰的な視線が必要なんだろう。
冒頭で色んな文法用語を並べたが、それについてもきちんと解説されている。入門書としての捉え方も可能な本ではないだろうか。
一読をお勧めする。
まぁ、帯の「方言は標準語よりも“世界標準”だった!?」という文句には、いささかの恥ずかしさを感じるが。