Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第656夜

変容する日本のことば (前)



言語』の今月の特集は「変容する日本のことば」、副題が「言語の危機と話者の意識」。
 久しぶりにたっぷりと方言に関する文章を読んだ。

 一発目、佐々木冠氏の「日本語言語状況−多様性は失われるのか」でビックリ。
 UNESCO が危機言語についての記事を発表していて、その中に日本から「八つの言語」が載っているのだという。
 そのページを見てもらった方が早いと思う。そこから PDF の世界地図 (20MB) をダウンロードすることもできる。
 言っちゃえば、アイヌ語、奄美語、沖縄語、国頭語、八丈語、宮古語、八重山語、与那国語である。
 俺と同じようにビックリした人も多いと思うが、何が言語で何が方言かというのは議論のあるところで、佐々木氏によれば、相互に理解可能かどうかと言うことが尺度になったのだろうとのこと。
 で、俺がポイントだと思うのは、その八つではなく、日本各地の方言が衰退しているのは、隣り合っている方言同士の影響によるものではなく、「標準語」の影響によるもの、つまり、有力言語による圧迫であるという点で、いわゆる“Endangered Language”の構図に他ならない、という点。
 つまり、青森との県境付近の言葉は津軽弁の特徴も見られ秋田弁っぽさが薄い、というのとはわけが違う。少数民族が英語を話すようになってしまうのと同じ、というわけ。
 確かに、そうかも。
 一方で、直ちに画一化するものではない、とも述べている。
 氏の挙げたほかに例を挙げるとすれば、いや、これは逆の例になるかもしれないが、関西では使い方がほぼ同じ「〜やん」という語尾があるため、東日本からの「〜じゃん」が入り込めない、という話。どっかに住み分けの余地があれば両立ということも起こるかもしれないが、今のところ無理。
 話は戻って、冒頭の八つの言語の危機と、方言の危機とはまったく別。後者は形が変わりながらも残る可能性があるが、前者は消滅が心配される。残らないかもしれない。
 これは今に始まった問題ではなく、かつて消滅させようという動きがあったことの証拠。そういう点では方言と共通点はあるのかもしれない。

 佐藤知己氏の「アイヌの人々とアイヌ語の今」では、佐藤氏がアイヌ語で話そうとしたときのことが書かれている。
 それは結局、「覚えたての言葉を披露してくれる外国人」の域を出ない。自分の言語を話せなくて苦しんでいる人の助けにはならないのである。つまり、母語を話すということは、相手がその言語という記号体系を理解しているだけではダメで、それを支える文化や価値観を身につけている必要がある、ということである。言語が危機に陥るというのはそれが失われると言うことで、記録したからといって追いつくものではない。だからここのところ話題になるわけである。

 日高水穂氏の「秋田における方言の活用と再活性化」は、に紹介した魁の記事とリンクしている。「秋田県民は本当に『ひやみこぎ』なのか」という話である。
 ここでは「フォークロリズム」という用語が出てくる。ググっても 400 件弱しかヒットしないところを見るとまだ一般に普及している概念ではないようである。文章中の『日本民俗辞典』の表現を孫引きすれば「民族文化が本来のコンテクストを離れて見出される現象」だそうで、数年前の「方言ブーム」が典型。地域おこしのために方言を「活用」する動きも含まれる。つまり、例の「秋田人変身プロジェクト」も入ってくるわけ。
 話が「地域アイディンティティ」に行った途端、紙面が一変する。県警の施錠キャンペーンのポスターに勇士を見せる超神ネイガーと だじゃく組合組織図である。えれぇ詳しい。
 俺は一月に、「秋田人変身プロジェクト」が秋田県民のマイナス面を方言で表現したことについて、ひょっとして秋田弁が秋田県民から遊離してるってことだろうか、と書いたが、そういうことのようである。日高氏は「『地域性のインデックス』として、生活言語から切り離されて利用されている例」としている。
 この文章の参考文献として、秋大の紀要に載ってる論文があるらしいんだが、読みたいなぁ。図書館とかに行けば見られるのかしらん。

 太田一郎氏の「九州における言語の機器と話し手の意識」の冒頭で、「九州方言の中でももっとも変容の度合いの大きい鹿児島市方言」とある。え、そうなんですか。あぁ、鹿児島県じゃなくて鹿児島市だからかな。その反対に、もっともよく維持されているのが福岡市方言だそうである。
 鹿児島市での調査の分析の結果は、中高年層は厳しい方言弾圧を経験したにも拘らず方言への愛着を失っていない。しかしその子供の世代は比較的、悪いイメージを持っており、実際に標準語化に見える変化が観察される。太田氏はそれを多様な方言との接触に求めている。
 鹿児島市の人口はおおよそ 50 万だそうだが、60 年代には 30 万と今の秋田市といい勝負であった。その増分の半分は圏外からの転入だそうである。そこに言語の接触が生じる。
 鹿児島には、県外に出たものは地元に回帰すると言う考え方があるらしい。それを「出稼ぎ」と呼ぶらしい。
 ここが面白いのだが、それによって、例えば「標準語化された身内」ができることになる。身内の影響力はよそ者より大きい。つまり、J ターン者や U ターン者の存在にも原因を求めている。
 福岡市は、意識の面では方言に対して肯定的だが、実際には変化が生じている。これも含め、特に積極的に取捨選択したわけでもないのに起きてしまう言語変化が進んでいる、と氏は見ていて、意識が言語に影響するというメカニズムに再検討をと結ぶ。

 つづく。




"Speak about Speech" のページに戻る
ホームページに戻る

第657夜「変容する日本のことば (後)」へ

shuno@sam.hi-ho.ne.jp