Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第623夜

正しい方言ふたたび



 こないだの『言語』に、早稲田大学の石原千秋氏の文章が載っていた。
「国語力は低下しているか」というタイトルで、新聞社が「国語力は低下している」という結論ありきの記事を書くために取材に来たときのことを書いている。
 氏は、若者たたきであることを素早く感じ取って記者を論破したようである。エピソードはいくつか書かれているが、一番笑ったのは、氏が夏目漱石の研究者であることから、最近の若者は漱石も鴎外も読んでいない、という話を持ち出した記者自身が国語の教科書で読んだだけだった、というくだり。国語力以前に取材の姿勢が問題。
 印象に残ったのは、敬語は大人が教えないとだめ、という話。確かに。敬語は仲間内でない人と話すときに使う言葉なんだから、部外者の最たるもんである人生の先輩から伝える必要があるわけだ。
 前にも書いたが、若い世代が方言を使わない、ということの陰には、若い世代と話をするとき、若い世代の耳に届く話をするときに大人が方言を使わない、という事実が隠れている。それと一緒。

 大体、今のメディアに国語力を云々する資格があるのかどうかは大いに疑問。
 アメリカ大統領選の事前調査で、二人の支持率に「二桁」の差がついた、って記事を読んだときはわが目を疑った。*1

 氏の文章は、「美しい日本語」について憂う別の新聞の記事に話が及ぶ。
 で、ちょっとそこからの連想で、「正しい方言」ってのをググってみた。
 なんで「美しい方言」じゃないかというと、それは「美しい」は方言とフィットするだろうと思うから。標準語と方言、と並べてみると方言は感情寄りの存在だから、「美しい」はアリだと思う。尤も、ケンカという感情が発露する場でも使われることを無視して、無条件に美しいと言う人もいるんだが、それはとりあえず脇に置く。
 で、「正しい方言」は、約 2,500 件。意外に少ない。
 大半は、よく考えずに「正しい」を使っている例。
 テレビ番組における方言が正しくない、というような議論はあちこちで行われているようだが、マンガやゲームの台詞についての話も散見される。これについては、方言がアナログなものである以上、正確さを追求したらドラマなんか作れませんぜ、ということを繰り返すにとどめる。
 ただ、正確でなければならない、という人と、俺みたいな容認派はおそらく見ているところが違う。後者は、前者よりは一歩引いたところから見ている。冷めた部分がある、と言ってもいいかもしれない。だから、この話は永遠の平行線、未来永劫、噛みあうことはないと思う。
 にも書いたが、「正しい」という言葉は、「規範」「基準」の存在を前提としている。それに合致するのが、「正しい」ということである。「正しい方言」という表現に違和感を抱くのはそのせいなのだが、ドクショ ト ヒビ ノ キロク の、琉球方言に関する文章には膝を叩いた。琉球方言はかなり以前から文字に記録されていたため、「規範」が存在している。そう言えば、ググった結果の中に沖縄に関する文章が多いような気もする。数えてないけど。

 規範といえば、どういうわけか方言の基準とされている京都弁。「昔の都で使われていた言葉が残っている由緒正しい方言」とかいうあれね。「正しい京都弁」はどうか。
 300 件。少ない。
 じゃ、「正しい博多弁」、400 件。こっちの方が多いのは何でだ。
「正しい名古屋弁」、500 件。増えてきた。
「正しい大阪弁」、なんと 3,000 件!
 これを持ち出すと怒られるかもしれないが、大阪の人は「非ネイティブが使う大阪弁」に対して強い抵抗を示す、という話もある。そのせいだろうか。*2

 勿論、「正しい○○弁」が間違っているというのではない。
「秋田では『馬鹿』という意味で『たわけ』と言います」と言ったら、それは間違いであり、正しくない。*3
 だが、境界域にある表現・現象は相当に多いんだと思う。
 ここの文章を書くときにある表現が使われる場所を探すためにググってみることは多いが、「○○弁である」「○○では使わない」という風にネイティブでも意見がわかれる例はいくらでもある。
 前にも書いた通り、「秋田弁」と言ったとき、それはいつの時代のどこの誰が使った言葉なのだ、ということを定義しなければならないのだが、それは実際問題としては不可能である。かといって、「昭和 30 年代の秋田市内町で 40 代男性会社員が使っていた言葉」などと決めてみたところで、狭すぎて「秋田弁」とはとても言えなくなる。
 したがって「○○弁」の定義はあやふやなものにならざるを得ないので、「正しい○○弁」ってことを言い出すとおそらく議論そのものが成立しない。

 というわけで、いつもの結論。
 言葉と「正しい」は水と油である。

 大体、なんにでも規範を求めるという姿勢に危ういものを感じる人がこんなに少ないのはなんでだ。




*1
 そういう記事が出ちゃった、ってことはそれが間違いであることに気づかなかった人が相当にいる、ってことなので一応解説すると、「支持率」だから割合である。複数回答のアンケートならともかく、二人の候補に対する支持率の調査だから、無回答や「どっちもでない」も合計すると 100 になる。したがって、「二桁差」は 0:100 しかあり得ない。 (
)

*2
 ミラーサイトとか魚拓サイトとか、人の文章へのリンクやトラックバックだけで成り立ってるブログとかが山ほどあるので、ヒット数イコール文書数ではないが、丁寧に数えるしか排除する方法が無いのでそのまま使っている。
 ただ、リンクを貼られるというのはその文章の人気とある程度リンクするので、ヒット数は関心の高さを表している、と考えるのはそれほど的外れでもないと思う。 (
)

*3
「方言」には、「ある地域で行われる言語活動のすべて」という定義もある。そうなると、「秋田では『たわけ』と言う」は間違いではないことになる。 (
)





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