Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第278夜

正しい方言




 先日、長野出身の友人から、「私のところでは、食事が終わると『いただきました』と言うのだが、これは正しいのだろうか」というようなことを言われた。
 先々週に引き続いて、「正しい」について話をしてみようかと思う。

 俺の答えを書けば、そんなもの「正しい」もへったくれもない。長野でそういうのなら、それはもう単にそういうことなのである。間違いではありえない。そもそも「正しい」とか「間違い」とかいうのはまったく別の次元の話だ。
 ただし、その表現が他の地域で通用するかどうか、ということになると話は変わる。
「ごちそうさま」は「馳走」が元になった表現だ。
「馳せる」であり「走る」であるという字を見ればわかるとおり、これは、あちこちかけずりまわって食事を用意、もてなしをする、という意味。「ごちそうさま」はそれに対するお礼やねぎらいの言葉だ。「ご苦労さま」と形が同じであろう。
 そういう意識を持っている人の前で「いただきました」を使うと、敬意が欠けている、礼儀がなっていない、という感想を持たれる可能性はある。「いただきました」は事実の報告に過ぎない、と受け止められてしまうかもしれない。
 そういう「異文化間の摩擦」というのは常にある。
 が、それと「正しいか否か」とはまったく別の話なのだ。

 そもそも「正しい」というのは非常にジェネリックな言葉だ。英語を使ってしまって申しわけないが。例によって大辞林を引くと
物事のあるべき姿を考え、それに合致しているさまをいう。
(1)道徳・倫理・法律などにかなっている。よこしまでない。
(2)真理・事実に合致している。誤りがない。
(3)標準・規準・規範・儀礼などに合致している。
(4)筋道が通っている。筋がはっきりたどれる。
(5)最も目的にかなったやり方である。一番効果のある方法である。
(6)ゆがんだり乱れたりしていない。恰好がきちんと整っている。
「合致」「合致」のオンパレード。「何に」合致するのかを提示しないと使えない単語であることがわかる。
 だから、「『いただきました』は長野弁として正しいのか」という問いであれば答えは「はい」であり、「『いただきました』は標準語として正しいのか」であれば「いいえ」である。

 先週の「正しい発音」も、「標準語として正しい発音」と言えばそれほど問題にならない。だが、「正しい」だけをポンと投げ出すと「標準語が規範であって、それに合致していることが、正しいことである」と解釈されてしまい、「秋田弁はよこしまなのか」という反論を呼び起こしてしまうのである。
 そもそもその標準語だって、結果的になんとなく標準っぽくなった、という代物である。正当性なんか持っていない。

 こないだ某所で言語学に関心を持っている人たちの文章を読んだのだが、そういう人であっても、東京弁イコール標準語だと思っていることが多い、というのに驚いた。
「NHK のアナウンサーが使う言葉」というのではなく、全国に通用する言葉という意味で、全国共通語と標準語を同一視しているようだったが、例えば「ため」「うざったい」が東京西部方言を経由して全国に拡がったのだ、というようなことに気づいていない。大体、この言葉は必ずしも全国的には通用しないのだが。
 その上で、「自分には方言がない。方言は暖かい。方言がある人がうらやましい」とか言われると、これは申しわけないが、ピントはずれ、と言わざるを得ない。
 他の地域の人の言葉遣いが自分とは違う、ということには気づいているのである。であれば、他の地域の人からみたら、その人自身の言葉も違うのだ。それすなわち「方言」であろう。

 話を戻す。
 そもそも正しい必要があるのか、というあたりを振り返ってみるというのはどうだ。
 この場合、「正しい」というのは伝統的な形式に則っている、ということになるだろう。だが、言葉は変化する。ルールそのものが変わってしまうので、ある時点では正しい表現が、時間を経ると間違った表現になってしまう。その場合、旧来のルールに固執すると、その言葉は通用力を弱め言語としての「生命」を失ってしまう。
 その場合でも、ルールはルールなので、旧来のルールで育った人がそのルールを守ろうとするのは「正しい」。旧ルールと新ルールが衝突したときにどうするか、というのは、人間のコミュニケーション能力の問題。それぞれの気配りとか、力関係とかそういうことも絡んでくる。
 そういうことで「オヤジは」「最近の若い者は」という話は多いが、コミュニケーション能力が低下しているのはどっちも同じなのではないか、と思ったりする。
 例えば、最近の敬語で「〜してみられてはいかがでしょうか」というのがある。これは、「〜なさってみてはいかがでしょうか」というのが「正しい」。「最近の若い者」の中で、本人は気を使って敬語で話しているつもりらしいのだが、「〜してみられてはいかがでしょうか」のおかげで台なし、という例は何度も見ている。これ、二つの「正しい」がぶつかり合っているのだが、さてどっちが正しいのか、と迫られると結構、困るのである。
 それよりはずっと引っ込んで、通じればいいじゃん、というところで仕切り直し、その上で、よりよいコミュニケーション、よりよい言語生活のために改めて積み重ねていく、って方がいいと思うのだがどうだ。

 ところで「よいコミュニケーション」って何?




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