久しぶりに医療関係の話。
NHK の朝のニュースでやっていたのだが、
弘前学院大学の先生が、医療現場で困る方言の研究をしているとの事。老人を主とする患者の方言を、若い医師や、ほかの地域から来た医師が理解できない、という事態になっているらしい。
メモはとったのだが、改めてググってみたら、
富山商船高専、弘前学院、
県立広島大学、
大分大学の共同研究だそうだ。地域的にはいい感じに散っている。データベースも試作されているとの事。
2ch にはすでにスレが立っていて、予想通り、方言なんか使うな、っつー発言が多く、その中にまともな意見も散見される、という状態。
しかしながら、患者の方だって標準語が使えないわけじゃないだろう、という意見は検討の価値があるような気がする。いや、ここで「検討」とか言うまでもなく、とっくに反論されている。
まず、語彙は置き換えることができたとしても、発音はそう簡単には入れ替えられない。単語や文法が標準語でも、音が標準じゃなかったら、けっきょくわからないだろう、という意見。それはそうだろう。聞くほうの医者も、方言だろうと思って聞くだろうから絶対にわからないに違いない。却って始末が悪い。
もう一つ、病状や症状を表現するための「単語」が標準語にあるとは限らない、ということ。
宮城弁の「
いづい」なんかがそうだろう。これは、「体に密着しているものがしっくりこない」「体の表面部分の状態が気持ち悪い」という意味で、服やメガネが大きすぎる、あるいは小さすぎる、入れ歯がずれる、コンタクトレンズが合ってない、目にゴミが入った、というような状態を表現する。
これを一言で表現する「単語」は標準語にはない。
「
いづい」くらいならいいが、救急車で担ぎこまれたようなときなんか、その症状を表現するために、一言でジャストフィットする方言を使わずに、遠まわしに標準語の語彙を重ねるなんて、そう簡単にできることではない。
痛イ痒イ疲レタは、生活に密着した現象であると同時に、精神的な側面も強い。具合が悪ければ悪いほど余裕もなくなって、自分本来の姿に戻りがちである。したがって、どうしても方言の出番となる。
方言同士の間では、世界を表現するためのグリッドがずれている、ということは何度も言ってきたが、ある方言で一語で表現できるものが、ほかの方言で一語で表現できることはない、と思っておいたほうがいいのかもしれない。
このニュースでは、医者がやっと覚えた津軽弁で「
のだばれ (足を投げ出して座れ)」と言おうとして、間違って「くたばれ」と言ってしまって、患者が激怒した、という話も紹介されている。
それはまぁ、しょうがあるまい。病人でなくとも、老人に「くたばれ」なんて言ったら、よっぽどの関係でない限り怒られて当然だろう。
医者の方で無理に方言を使う必要があるのかどうか、というのもまぁ難しいところである。
信頼関係の構築には、双方が歩み寄る姿勢が必要だろうが、こういうミスをしてしまうことを考えると、無理に使うことはないんじゃないだろうか。
その辺は、他所の地域から医者を迎える人たちにも、「
いづまでもこごの言葉、覚えねで、東京風ばし吹がして」みたいな閉鎖的な考えは捨ててもらった方がよかろう。
難しいかな。
前に、ある地域に嫁いで来て、孫が生まれる年になっても、「あんたはこの辺の人だって感じがしない」と言われた人の話をしたことがあるが、これが方言主流社会の特質なんだとすれば、そういう軋轢は未来永劫なくならないんだろうな。
はっきり言って、そういう姿勢が人口減少の原因の一つなわけで、2ch で見られる、方言なんかやめちまえ、というのと方向は正反対ながら、かたくなさ、排他的という点では同じようなものなんじゃねぇか、って気がする。
これは地域特有の問題ではないが、産科と小児科の苦境が言われるようになって久しい。
数ヶ月前にも、近所にあった産婦人科が学習塾に変わっててびっくりしたのだが、どうやら産科は本当にものすごい勢いで減っている。今や、「秋田市内で何軒?」ではなく「県内で何軒?」って状態らしい。規模を縮小した病院がいくつもあってこないだ新聞に載ってたのだが、その中に俺が生まれた病院もあって、あらら、と思ったことであった。