Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第574夜

オリエンタリズム



『言語』の 12 月号に、秋田大学の日高水穂氏の文章が載っていた。
 授与動詞 (「やる」とか「くれる」) の、新潟と長野にまたがる「秋山郷」における実態に関するものだ。

 授与動詞に関してググると氏の本や論文に関する記事が大半を占める。この分野については第一人者ということになるようだ。それはこないだの『言語』8 月号に載った、『授与動詞の対照方言学的研究 (ひつじ研究叢書)』の新田哲夫氏による書評にもある。
 授与動詞の何が問題になるかと言うと、たとえば目の前の人に何かを授与しようとする場合、「これ、君にやるよ」と言うが、「君にくれるよ」とは言えない。だが、これは標準語の話で、秋田弁では「これ、おめさける」と言うことができる。ただし、「おめさやる」も言える。この違いは地方による、というわけである。
 これは思いつきだが、「くれてやる」の場合、どっちがどういう意味を担っているのか、というのはひょっとしたらなかなかに興味深いのではないか。あきらかにぞんざいな言い方で、それは「やる」のニュアンスではないかと思われるが、「くれる」だってお世辞にも丁寧な表現ではない。

 秋山郷というのは、落人伝説のあるところで――と言ったら、おおよその見当はつくであろう。日本の秘境百選にも選ばれたところだそうで (そんなものがあるとは知らなかった)、人の行き来の難しいところだと、言葉は昔の姿を維持していることが多い。日高氏は、それを探して、山あい・半島・離島をフィールドワークしてきたそうである。この点については、後で言及する。

 この文章では、マタギ言葉についても触れられている。
 マタギは仲間同士で独特の言葉を使うが、秋田のマタギ言葉の一部が秋山郷でも使われる、とのことである。
 この伝播は人によるものだが、その独自性から、平面ではなく点を線でつなぐ形になっている。
 マタギ言葉については何度か読んだことがあるが、その語源が全く見当つかないことが多いなぁ。

 この文章では、秋山郷の方言そのものについては触れていない。ググると色々と出てくる。母音が八つあるとか、ハ行がファ行だとか。
 長野側の栄村には秋山郷総合センター「とねんぼ」という施設がある。「とねんぼ」は、「物や人が融合しねばりつく姿を表現する秋山郷の方言」なんだそうだが、具体的にどういうことだかわからん。これは宣伝文句だろうから多少割り引いて、「くっついて離れない状態」だと解釈するべきなんだろうけど。たとえはよくないが、缶に入った飴をしばらく放って置いた様な状態?

 で、秋山郷での授与動詞がどうだったかと言うと、やはり変化途中という状態だったそうである。
 よくよく調べてみると、秋山郷も結構な観光地で、旅行記が山ほど見つかる。必ずしも秘境ではないような感じ。
 つまり、今となっては人の行き来は、楽ではないまでもそれなりにあるわけで、外の表現はかなり入ってくる。
 また、閉ざされているから変化しない、ということはない。むしろ、独自の変化を遂げることだってある。
『授与動詞の対照方言学的研究』が朝日新聞で紹介されたときの記事がひつじ書房のページに載っているのだが、そこでも、今回の文章でも、氏は「オリエンタリズム」という表現を使っている。これは、Wikipedia の記事を読んでもらうとわかりやすいが、「ある中心を設定して、それとは違うもの、と見る捉え方」で、おそらく、俺がに書いた、「標準語より豊か」「由緒正しい」とかいう、ほかの尺度を持ってきて肯定する方言愛好家のことを指している。
 古語を良き者として無条件に肯定しておいて、自分の方言はそれに連なるものであるとする考え方は根強い。に『方言が明かす日本語の歴史 (小林隆)』を紹介したときにも書いたが、いわゆる「古語」というのが、基本的に、「京都」の「貴族」が文字に残した言葉で、日本語における言語現象のごく一部、ほかの地域・時代・階層に目配りのない前提だ、ということに気づいている人は多くない。
 また、標準語を無条件に否定する考え方も、程度の問題はあるが東京方言というほかの方言の否定でもある、という点で公平性に欠ける。
 結局のところそれは「好き嫌い」であり、そこに理論付けをしようというのが間違いである。「好き嫌い」は「好き嫌い」でしかない。正しさも「べき」も存在しない。

 自分のホームページの否定につながりかねない内容になってきたのでこの辺で。




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