“
PRESIDENT”を購読するようになって 4〜5 年になる。
社長になろうなんてこれっぽっちも思ってないが、擬似社会勉強になっている。田舎のプログラマなんて視界と社会がものすごく狭いので、こういう対策が必要だ。
ここ数年で思うのは、一本一本の文章が短くなっていること。特集でも、長めの文章がいくつかと、見開きで読みきれる文章が並んでいる、という形式になっている。読者の力量が落ちていて、長い文章は読まれない、という話はあちこちで聞くが、そういうことか。
この雑誌、地方に対する目配りが意外にきちんとなされていて、全国各地の記事がかなり載っている。そこから生まれた単行本にしても、『
誰が「本」を殺すのか』は全国の書店・版元を回っているし、『
セーラが町にやってきた』という、ご当地企画もある。ついこないだまで各地の新しい試みを取り上げる「地方に活路あり」という連載もあった。これ、単行本にならないかなぁ。
当然、取材対象によっては、方言も出てくるわけだが、多くの場合に、それを好意的に受け止める。「朴訥」「誠実」「開けっぴろげ」などなど。
別に、“PRESIDENT”に限った話ではない。ウケを狙わない、娯楽性の低い雑誌は概ねそうである。言い方を変えれば、雑誌自体に誠実性がある、または、期待されていれば、そういう取り扱いになる、と考えてよさそうだ。
ってことは、方言を笑いものにした
バラエティ番組を作ったあのテレビ局には誠実性がいやなんでもありません。
まず基本的に、言語そのものに貴賎の区別はない。
その一方で、人間はどうしたってイメージの影響から逃れることはできない。できないから、それに惑わされないような努力をせざるを得ない。ズーズー弁の敏腕エグゼクティブというのはどうもミスマッチだが、それはそんなイメージがある、というだけで、ズーズー弁では商売ができないということはない。その向こうにあるビジネス マインドを炙り出さなければならない。その結果、記事そのものは中立的になる。
つまり、相手が方言を話したからどうだ、ということである。
でも、ある人が使う言葉、選択するコードには、それなりの理由があるというのも事実。
よそ行きの顔をでっち上げたりしない人であれば、やはり、普段と同じような言葉遣いを選択するだろう。それを、誠実、開放的と受け止めることもまた、間違いではない。
逆に、方言を使うことで、余所者に対して障壁を作り上げているのかもしれない、ということもある。
悪意はなくとも、単にほかの言葉を操れない、というだけかもしれない。だが、他地域からのインタビュアーに対して自分の方言を使うというのは、意味やニュアンスを伝える上で障害になる虞がある。それは無視していいものだろうか。
一般的に、昔の方言撲滅運動の反動か、方言に対して過度に寛容じゃないか、という気はする。方言は全て良いものだ、というイメージを持ってはいないだろうか。
「〜は皆、悪い奴だ」と同じで、「〜に悪い人はいない」という思い込み、これには十分に気をつけるべきだろう。
何年か前の“PRESIDENT”で、有名企業の社長にインタビューする、という特集があった。20〜30 人いたかと思う。それを読んでるうちに、その大半が首都圏の出身者であることに気づいた。
ものすごい違和感だったので、それを、ネットワーク上のとある場所で発言したところ、賛意が全く得られなかった。これにも違和感を覚えた。
確かに、ビジネスの中心地は東京である。だが、東京だけで回っているのではない。大阪は商業都市の座を明け渡してはいないし、名古屋だって頑張っている。なのに、ある特集に登場する人のほとんど (確か 8 割くらい) が首都圏の出身だ、ということに違和感を持たない人がいる、ということで驚きの追い討ちである。
*1
東京でバリバリやっている人は、無意識にでも、東京中心の考え方になってしまうのだろうか、と思った。今でも、ちょっとだけ思っている。
自分の言葉を「標準語」だと思ってしまう、というのと繋がっていたりするんだろうか。
田舎は田舎で、東京を意識しすぎだと思う。
粛々と自分のやることをやればいいだけなのに。あるいは、仮想敵としての存在なのかもしれないが。
産業振興として、「観光」と「誘致」しか出てこないうちは、だめだろうなぁ。目新しいことをしようとすると、すぐ足引っ張るからな。
尤も、そういうところだからこそ、方言が残るのかもしれないが。
新潮社。
TDK.
誰でも知ってるこの会社。創業者は秋田の人なんですけど、知ってました?