なんでこんなにテレビの話題が続くんだろうなぁ。今度はフジテレビの「ジャポニカロゴス」。
2 回目らしい。そういや前にやってたかもしれない。日曜夜はビデオや DVD の上映会実施中なので、朝、新聞を見たときに「お」と思っても、その時刻には忘れてしまってたり、映画の佳境に入ってて「いいや別に」となることが多い。
全く期待してなかったが、やっぱりな内容。そういう意味では期待通りだった。
前回の放送では「ネコの缶詰あります」あたりを取り上げて、変だ、とか言っていたらしい。
そりゃぁ
いいがかりってもんだろう。
確かに、「ネコの缶詰」は「ネコを入れた缶詰」という解釈もできるし、「○○の缶詰」と言ったら、それがシャケにしろオモチャにしろ、「○○のための缶詰」ではなく、「○○を入れた缶詰」と解釈するほうが多いかもしれないが、「帰りにネコの缶詰買ってきて」という表現、「これ何?」「森田さんの缶詰」というようなやりとりは日常的に行われているはずで、それで社会が回っているのであれば、それを「間違っている」と断定するのは、はたして適切か。
*1
この辺、人間以外のための缶詰があまり多くない、ということも影響している。
缶詰ではなく、たとえば、「金田一さんの本」と言ったら、「金田一さんが所有している本」「金田一さんが執筆した本」「金田一さんについて書かれている本」と様々な解釈が可能で、どれも無理がない。
ただ、個人的に金田一さんを知らない我々が、「金田一さんが所有している本」について言及することは少ないだろう。つまり、ある表現が適切かどうか、というのは状況に応じて変化する。
さて、問題の方言である。
様々な「ありがとう」が紹介されていたが、沖縄の「
にふぇーでーびる」が流れたときに笑い声が起こった。
なぜ笑う。
それより、なぜカットしない。沖縄ってのは笑われてしかるべき存在なのか。
方言を笑いものにしてやろうという姿勢がはっきり見えている。
前に NTV の「ザ!鉄腕!DASH!!」で福沢アナが、別に方言がどうこう言いたいのではない、としつこいほど繰り返していたのとは大違いだ。
「アルプスの少女ハイジ」と「ONE PIECE」の 1 シーンを取り上げて、それに大阪弁と名古屋弁をあてる、というコーナーがあった。
まず標準語での場面を流して「初々しい」「さわやか」と紹介しておいて、方言での場面を紹介した後、「初々しくない」「さわやかじゃない」と落としている。
流石にタモリが直後にフォローしていたが、それぞれの地域では、そういう言葉で日常生活が営まれている。初々しくないだのさわやかじゃないだのは大きなお世話である。というより偏見だ。
勿論、なじみのないものに触れて違和感を覚える、というのも自然なことで、大阪弁のハイジに笑ってしまう気持ちもわかる。
が、ケンカのシーンを持ってきて、それを「柔らかい」というイメージのある京都弁かなんかで置き換えると雰囲気が和らぐ、というような取り上げ方もあるわけで、それをしなかったのはやはり方言を笑おうとしてたからだろう?
というわけで、しょっぱなから悪い印象をもってしまったので、ここからは「批判的」というより「非難的」な姿勢で見ることになる。
新明解と顔文字。
どっちも、今更? という感じがぬぐえない。
赤瀬川源平の『
新解さんの謎』が出たのはもう 10 年近くも前だ。テレビにとりあげる旬はもう過ぎただろう。確かに、例文に出てくる金の額が変わっている、というのはバラエティ的かもしれないが。
その例文だが、やたら「暗い」例文が多い、ということがネタになっている。
だが、俺は聞きたい。「だって (『オケラだってトンボだって』の『だって』)」で明るい例文が作れるか? この「だって」は、「オケラやトンボは、あんなに小さくて人間が踏めば死んじゃうようなはかないものではあるけれども、生きているんだ」という意味だぞ。
福井アナウンサーが「今から」を「い
まから」と発音していた。ニュースでもないし俺自身は気にしないが、この番組ではやってはならないミスではないか。
敬語になると、急に風向きが変わる。
上司に謝るとき、「すいません」の前に、歯の間から息を吸う音を出す。これによって、申し訳ないという気持ちを表すことができる。
小学生は丁寧な敬語を使うべきではない。
自分とこの社長が退席するときに部下が言うべき言葉は「失礼します」。自分が退席するのではないのだが、現在の日本語にはそれしかない。
*2
「ネコの缶詰」であれだけ教条主義的な姿勢を見せておいて、ここで急に実際的になる。
実際的というか、こうしたことも含めて「言語」なのだ、というのは『
日本語学』とか『
言語』とか読んでると見られる姿勢なのだが、そういう中立性が急に顔を出すわけ。
番組制作側はバランスを取ったつもりなのかもしれないが、俺には「チグハグ」と映る。さすがに「フジのバラエティ」とでも言おうか。
顔文字。
俺が「ネットワーカー」になってからはとっくに 10 年過ぎてて、前から使ってるのだが、だからって一般的だなんて言うつもりは毛頭ない。
でも、「(^o^)」位は知ってろよ、という気がする。
東映の「
シブヤ フィフティーン」というドラマの主題歌は「
せカゝι)σおわ└)」というタイトルだが、これで「世界の終わり」と読む。“Shi15uya”という表記にしてからが、“b”と“15”が似ていることを利用したもので、同一線上にある。
ここでだけ講師となった、教条主義的な方々には評判のよろしくない若槻千夏がイキイキしていたのが印象的。
ちなみに、オジ様オバ様たちが顔文字になじみがないのは、これが新しい現象だからというより、若者達がオジ様オバ様相手には使わないからだと思う。
若者が「乱れた」日本語を使っているのは、仲間内か、怒ったときなど、使い分けをする余裕がなくなったときである。常に乱れているわけではない、ということは指摘しておく。
最後が、「歓喜」「有頂天」「狂気」と、よく似た単語を使ったシナリオを渡して、それぞれの喜び方を演技し分けろ、というもの。
これ、流石に役者だと思った。ちょっと松下 由樹を見直した。
そういうことなので別にケチをつけようとして言うのではないのだが、単語の辞書的な意味を知っていたのではなく、文脈から判断したのではないか。
いや、つまり、それも言語能力だ、ということを言いたいのだが。
「正しい日本語」教の人々は、そうした能力を軽視してないか。「ネコの缶詰」なんてその好例だろう。
まぁ、そんなわけで、「公器」がアナウンサーに「
おちんちん (富山方言で「正座」)」を連呼させたりして喜んでいるのは特に驚きもしないが、方言を嘲笑した廉で、第 3 回があっても見ないことにケテーイ。