Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第404夜

隣のことば



言語』誌の 9 月号が「隣のことば」という特集をやっている。当然、方言に関わり大有りの話題である。

 井上 史雄氏の「『隣のことば』の近接効果」では、日本言語地図の標準語形使用率と東京からの距離を図にして並べる、ということをしている。これが、きれいに東京を頂点とする山の形に並ぶのには驚いた。
 よく、ある地点からの (多くの場合に東京だが) 移動にかかる時間を元にした地図、というのを見かける。あれは、例えば、東京からだと福島よりも秋田のほうが近い (東京−福島は新幹線で 2 時間だが、東京−秋田は飛行機で 1 時間) とかで、かなり歪むものだが、そういうことがない。
 掲載されている地図は距離を元にしている。すべての列車が鈍行 (あるいは鈍行と見なして構わないようなスピードの列車だけ) であれば距離と異動時間はほぼ比例するが、例えば特急があると、都市間の移動は早いが、その間の駅の移動には恐ろしく時間がかかる (秋田から大曲までは、「こまち」に乗ればわずか 30 分だが、大曲よりも一つ秋田よりにあって各駅停車しか止まらない神宮寺までは 45 分かかる。料金がかかり増しになるという問題はあるが、タイミングによっては「こまち」で大曲まで行って戻ってきたほうが早かったりする)、というような不均一な状況が生じる。まして、これに飛行機やら高速道路が加わると更に複雑になる。
 だからこの二つの地図が違うものになるのは当然だが、高速交通体系が必ずしも言語に直接の影響を与えるわけではない、というのは意外であった。あるいは、これから効いてくる要因なのかもしれないが。
 ただ例外はあって、北陸は一つの独自系列を形作る。これは、東京からの直通経路がごく最近までなかった、ということに起因する、とされている。北陸は、北日本に分類されることもあるが、やはり文化的には関西系だ、ということである。首都が東京に移ったことで、首都からの影響が弱い地域になってしまった。東北が、東北本線と奥羽本線という 2 本の幹線が整備されて、いち早く関東の影響下に組み入れられてしまったのとは事情が違うわけだ。

「隣国のことばが好きですか (任 栄哲)」や「隣のドイツ語・未来のドイツ語 (和泉雅人)」が、隣り合った言語に対する印象や実態などをレポートしている。
 ここでは、二つの軸が問題になる。実利とイメージである。
 実利というのは、にも取り上げた『日本語の値段』で述べられていた話で、それをマスターすることによって得られるメリットの大小である。この点では、英語がダントツとなることは言うまでもない。その次の順位は、それぞれの国と、その状況によって変化する。今の日本なら、韓国語の人気が急上昇であるとか、そういうことである。

 それにしても、NHK の外国語講座のはしゃぎようはすごい。
 去年のスペイン語講座は、忍風戦隊ハリケンジャーの長澤 奈央氏を起用、起用するのは別にいいが、テキストの表紙で講師をさておいてメインに据え、あまつさえ全員に戦闘ポーズを取らせる、という挙に出た。彼女の敵役であった山本 梓氏は、今期の韓国語に出ている。なんなんだか。*1
 尤も、俺が学生の頃、ドイツ語講座に女優の佐藤 万理さんが出ていて、彼女を目的に見ていた、なんてことは前にも書いたか?

 話を戻す。イメージの方。
 言語そのものではなく、言語周辺のイメージがものを言う、という話。
 例えばドイツ語というと、歯切れよく力強い、演説のシーンが浮かんでくる。フランス語では愛のささやきが、スペイン語では情熱的にまくしたてるイメージ。韓国語は、こないだまでは激昂しているイメージがあったが、昨今はこれも愛のささやきか? 俺の、激昂しているというイメージは、議会が紛糾してすさまじい騒ぎになっているシーンで植え付けられたものだと思われる。
 だが、ドイツ人にもプレイボーイはいるだろうし、フランス人も演説はするし、落ち着いたスペイン人もいるだろう。
 韓国語と朝鮮語といったら、本来は一つの言語だが、現在のイメージは遠く離れているだろう。
 そういうようなことが、言語のイメージに大きな影響を与える。
 ひいては、ドイツ語話者だということがわかると態度が変わった、というような事件 (「隣のドイツ語・未来のドイツ語」) が起き、つまり、ある言語を使うと損をする、ということになる。イメージは実利にまで影響を与える、ということだ。

 イメージは、対象のことをある程度は知らないと構築されない。前にも書いたが、映画のおかげで「オーストラリア英語」のイメージを持つことはできても、「カナダ英語」のイメージを持つのは難しい。
 同じように、秋田衆は、津軽弁・南部弁・山形弁、あるいは宮城弁についてなにがしかのイメージを持っているし、ある程度はそれぞれを弁別できる。だが、大分弁と長崎弁を識別するのはおそらく無理である。遠くて人の行き来がないからだ。
 別の例を挙げると、テレビ方言とか擬似方言とかいわれる、ドラマなどで田舎者であるということを示すためだけに使われる方言は、東北弁がベースになっている。これは、東北が、最大の人口密集地である東京に近く、かつては労働力の供給基地であったこと、つまり、東京にとって身近な方言であったことが理由である。
 最初の話に戻るわけだが、遠近は親疎にも影響する、非常に重要なファクターだということだ。

 佐藤 和之氏の「覇権――方言と言文一致政策」では、明治から昭和期の標準語強制のような動きがヨーロッパで起こったら戦争になっていただろう、としている。
 北海道から沖縄までの 3,000 キロは、ドイツ―ポルトガル間の 2,300 キロより遠い、と書かれているが、今なお影響を残すこの運動がいかに苛烈なものであったか、ということである。
 話がまたそっちに行くが、人の言葉を権威で云々するのは、時として人格否定に繋がるのだ、ということは、「正しい日本語」信者は心するべきであろう。




*1
 その後で作られた「爆竜戦隊アバレンジャー vs. 忍風戦隊ハリケンジャー」では、長澤氏演じる七海はスペインで次の任務に当たっていた、というクスグリ設定がある。実際、スペイン語の台詞があって字幕が出る。
「ロボコン」や「仮面ライダー龍騎 -EPISODE FINAL-」の
加藤 夏希氏は英語だったし、「仮面ライダー アギト」の賀集 利樹氏の番組はまだ続いている。
 これはむしろ、語学講座云々より特撮界の盛況を言うべきなのかもしれない。()





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