これを読んで意味が直ちに把握できるだろうか。「恐くない」と否定したいのか、それとも我々が問い掛けられているのか。
記事自体は中立を保ちたいらしく、このことについてケシカランともモンダイナシともしていない。だからなおさら、意味の把握に時間がかかったのだが、これはひょっとして及び腰だからなのではないか。
つまり、刑務所ということからガラの悪さを連想することは容易だと思うのだが、そこに全く触れていない。毛ほども、である。おそらく、それだけで納得してしまった人も相当いると思うのだが。
「公器」としては、そこに触れれば、その連想が安易なもので、往々にして更生の障害になるのだ、ということにまで筆を進めなければならない。そこまで書けば、このメモ帳を肯定した、と受け止めることもできるようになってしまう。それを避けたのではないか。
というわけで、非常に中途半端な記事になってしまっている。
秋田大学の佐藤 稔教授の談話として、秋田弁はけなし言葉が多い、これは着飾らない事例集だ、とある。
その通りである。確かに方言には、ヌクモリがあって、ナツカシくて、デントウテキな、という側面もあるだろうが、同時に罵倒する表現だって相当の量があって、どうかすると短くても全人格を否定するような雑言だってある。なんせ生活の言葉なんだからあたりまえだ。
別に方言に限った話ではないのだが、そこに蓋をしようとすることは非常に多い。言葉狩りとまでは言わないが、いいところだけ見て、そうでないところには目をつぶる、という行為が間違いであることは言うまでもあるまい。
方言愛好家はそこを認識するべきであろう。
かと言って、販促商品に「
あだまきゃね」が適切かどうか、っつーと、それは流石に厳しいだろう。
確かに、世の中には「ブラック ユーモア」ってものもある。
こないだある冊子で見つけたのだが、真剣白刃取りのシーンをあしらった
T シャツがある。
だが、刀はしっかり振り下ろされていて、タイトルが“
GAME OVER”と、俺はすっかり気に入ってしまったのだが、これが普遍的に支持されるかどうか、と言うと、まぁ「否」であろう。着ていく場所と、会う人間を選ぶシャツだ。
同じことは、このメモ帳にも言える。1 ページ目に「
あだまきゃね」を見つけてギョっとしたというその人の感覚は健全だ。
「頭弱いな」とか「バカ」とか「お前はアホか」であれば、受け止め方もまた違ったであろう。
この辺が逆に、方言の面白いところであって、「
きゃね」であったがゆえに、見る人の感覚にグサっと入り込んでしまったのではないか、ということも言える。
この記事に並んで、秋田弁での安全運転標語を募集する記事もあった。
これが並んでいる、というあたり、なんだか意図がありそうな気がする。
もし、そのメモ帳を非難する気持ちがあれば、方言標語募集などという暢気な記事と並べることはしなかっただろう、と想像されるからだ。この二つを並べることによって、別にメモ帳にケチをつけてるわけではありませんよー、という姿勢を見せたかったのではないか。
なーんてことを想像してしまうのは、『
クライマーズ・ハイ (横山 秀夫)』を読み終えたばかりだからか。
群馬の地元新聞社を舞台に、御巣鷹山のジャンボ墜落事故と、それをめぐる人々の凄まじい数日間を描いた小説である。ほんと、凄まじいとしか言いようがないなぁ。ラスト カットは爽快でよい。
自分は子供とのコミュニケーション確立に失敗した、と考えている主人公が俺と同じ年なのには参ったが。
交通標語では、
かなり前に紹介したが、「
ドカンと一発かまどきゃし」というのがある。「
かまどきゃし」というのは、「竈」を「火を消す」のか「ひっくり返す」のかのどちらかで、いずれ、破産とか家をつぶすとかいうことである。
これだって、つまりは一家離散で、お世辞にも気楽にできる話ではないと思うのだが、この過激な秋田弁は通るわけである。いや、ひょっとしたら色々あったかもしれないが、現に、その募集記事には例として挙げられている。
つまり、適切である、けしからん、などの評価は、相対的なものだ、ということだ。おそらく、かなりの人が忘れていることだ。
というわけで、この文章も、そのメモ帳を肯定しているのか否定しているのかはっきりしないことになってしまった。
そのメモ帳は秋田弁を紹介するための資料ではないわけだから、秋田弁というものを広く網羅する必要もなかったであろう、とも思う。よくある、ちょっとユル目の方言グッズ同様、表面的な単語だけを並べても一向に構わなかったに違いない。
でも、学術的な堅苦しい本にしか収められていない (あれば、小説なんかもだろうが) 秋田弁を一定の形に残した、という点では意味がある、とも思われるし。
短く言えば、積極的に支持はしないが、別にいいじゃん、というところである。
俺の違和感は、最初に書いた、