Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第384夜

数学な方言



 今年の 1/4 が経過した。
 春になって緊張感のない人もいるかもしれないので、意地悪なたとえをするなら、1 年という時間を \1,000 に対応させた場合、所持金が \750 にまで減ってしまった、という状態である。もう何も買えないような気すらしてこないか。
 最初にこんな風に思ったのは 2 月のことで、2 月というと年明けすぐ、という感じだが、2 月 5 日で 1 年の 1 割だ、ということに気づいた。つまり、2 月 5 日 ってのは \900 のポジションなのである。これはちょっとばかり強烈だった。
 こんな風に考えるのは、俺が年を食ったからだろう、きっと。

 さて、数学である。
 これまで書いてきたことの寄せ集めになる。
 もっともユニークなのは、なんといっても、山形の「いちかっこ」であろう。“(1)”のことだ。同じように、丸で囲まれた“1”を「いちまる」などとも言うわけだが。
 理由はわかっていないようだ。おそらく、学校制度の開始時期とか、あるいは戦後くらいかもしれないが、そういう時期に、誰かが「いちかっこ」「いちまる」と言い始めたのが広まった、というくらいの話だろうと想像する。
 これは、まるっきり山形だけの現象で、教育委員会でも問題になった、と新聞で読んだ記憶がある。
 確か NHK の「ふるさと日本のことば」だったかと思うが、書く順番がそうだから、という説明を聞いた。つまり、数字を先に書いて、それをカッコではさんだり、丸で囲んだりするでしょう、と言うのだが、俺は、カッコについては左から右 (上から下) に書くなぁ。丸は数字より後だけど。*1

 秋田で「1 ヶ月」を「いっかつき」と言う、というのもに書いた。何度、聞いてもユニークだと思う。
 検索してみたが、俺の文章と、元議員の記者会見に関する文章がひとつずつしか見当たらなかった。北海道の議員だから、東北方言に近い現象が観察されても不思議はないが、それにしても、2 つだけ、というのがどうにも…。

 さて、「数学」AND「方言」でググってみる。
 んなことをしたのは、ちょっと前にも触れているが、「方言」にはこんなのもある、という話をするためである。大辞林
(3)ある階級・社会・仲間に用いられる言葉。隠語。
 にあたる。
 たとえば、「たかだか」という表現を取り上げてみる。「多くても」という意味だが、これを数学の分野に持ち込むと、「集合 P に含まれる要素は、たかだか 10 個である」などとなる。
 違和感があると思う。
 われわれが普段使う「たかだか」には、「その程度しかない」つまり「(多くても、とは言いながら) 少ないよね」という含みがあるからだ。「集合 P に含まれる要素は、たかだか 10 個である」といった場合、「たった 10 個か、少ないなぁ」という意味はない。単に上限を示しているに過ぎない。
「連続」という単語がある。これも解説はいらないと思うが、数学の分野ではれっきとした定義がある。読んだけどわからないので、興味のある人は、もう一遍、大辞林をあたってみてください。

 以下は、『日本語百科大事典 (第 4 版、1990、大修館書店)』に書いてあった内容。
・n = 5 のとき、2n を求めよ。
 n が 5 でないときは、求めなくていいのか?

・「直線上の点」
 下の図で言えば、p1 を指す。「直線より上」だからと言って p2 ではない。

・「逆」「裏」「対偶」という言葉はご存知だろうか。高校の数学でやったが。あれ、中学だっけ?
「A ならば B」という文を置いたとき、この順番を入れ替えた「B ならば A」を「逆」、当否を入れ替えた「A でないなら B でない」を「裏」、さらに、その両方を入れ替えた「B でないなら A でない」を「対偶」と言う。
「人間は動物である」を例にすると、対偶の「動物でないなら人間でない」は成立する。あるものをとりあげて、それが動物でなく、金属塊や植物だったとしたら、それが人間である可能性は皆無である。
 というわけで、ある「命題」が成立する場合、その対偶も必ず成立する。これを利用して、ある命題の直接的な証明が難しい場合、その命題の対偶が成立することを証明する、という手法をとることができる。
 で、「叱らないと勉強しない」の対偶「勉強すると叱られる」が成立する、という冗談があるそうで、これには笑った。*2

 尤も、こういうのは数学に限らず、「○○学」という学問のある分野では山ほど見つかる。
 日常的に耳にするところでは、仮に趣味でやっていたのであっても、ドライブ中に自動車事故を起こせば、それは「業務上」の過失になってしまう、なんてのがある。
 あるいは「開眼」。これは、「真の姿に目覚めた」というのであれば「かいがん」だが、仏像が出来上がったときの儀式を言う場合は「かいげん」と読む。広義も広義、という気はするが、こういうにも「方言」とみなしてみたい。

 プログラマの中には“(”を「かっこ」、“)”を「こっか」と呼ぶ人がいる。「カッコ」と「閉じカッコ」では形の対象が取れていないから生まれたものだと思われる。
 ホームページを記述するための HTML は、一応、ちゃんとしたルールがあるのだが、ブラウザが独自の拡張をしていたり、あるいは解釈が違っていたりして、必ずしも同じ外見にならないことがある。こういうものも「方言」と呼ばれる。

 まぁ、これにあまり深入りすると、“Fault-finder”との違いがはっきりしなくなってくるのでやめておくが、かなり面白い話だとは思う。
 さて、残った \750 だが、俺は果たして有効に使えるのだろうか。





*1
 つまり、
 1
(1
(1)
 俺は、
(
(1
(1)
 ただし、キーボードから入力するときはカッコが先である。つまり
()
(1)
 これは、手書きとは違い、キー入力では、数字がカッコからはみ出ることを心配しなくていいからだと思われる。
 それと、カッコと閉じカッコは必ず対応させなければならない、というプログラマ的習性によるものということも考えられる。カッコを置いたら、その中身よりも先に閉じカッコを置いてしまう、という癖をつけておかないと、忘れてしまったり、数が合わなくなってしまったりするからである。 (
)

*2
 これにはまず、「命題」の意味を確認しておく必要がある。大辞林では
(2)〔論〕〔proposition〕判断を言語的に表現したもの。論理学では真偽を問いうる有意味な文をさす。また、その文が表現する意味内容をさす場合もある。
 となる。
 つまり、「真 (正しい、成立する)」か「偽 (誤りである、成立しない)」かを「問いうる」、しかも、真でも偽でもない、という状態になりえないものを「命題」と言うわけである。
 この例の「叱る」は、「叱る」「叱らない」という状態のほかに、「ちょっと叱る」「笑いながら叱る」「折檻する」などのさまざまな状態が考えられ、人によって「それでは『叱った』とは言えないだろう」などという違いが生じうるので、「命題」とは言えないわけである。
 ここを無視するとしても、「人は動物である」ということとの決定的な違いは、「叱る」ことによって「勉強する」という事態が生じる (かもしれない)。つまり、「A ならば B」の“B”は“A”に依存している、ということがある。このような「論理式」が表現しているのは、二つの事象が同時に成立するかどうかであって、二つの事象の因果関係を問題にしているのではないのである。
 さらに、「勉強しない」という事象は「叱る」ことの原因となる。つまり、“A”もまた“B”に影響を受ける、ということで、ここに循環が生じてしまう。そもそも「命題」たりえないわけである…と理解したんだけど、合ってるのかなぁ。
 この「命題」も、誤用で話題になることが多い。またしても政治家や経済人だが。「課題」あたりと混同している。迫力つけたくて「命」って字を使ってみているのだろうか。 ()





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