Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第371話

声に出す言語生活



 12 月の初めに池袋に行ってきた。ジャンパーを着ようかどうしようか迷う気温。電車の中では脱いでいた。二日間の滞在を終えて、しょうがねぇから俗世に帰るか、と思って羽田に行ったら、秋田便は天候調査中で、ひょっとしたら仙台、あるいは羽田に戻るかもしれない、などと不吉なアナウンス。とは言え、どうしても職場に戻りたいわけではないので、そうなったらそれを口実にもう一日休めばいいやぁ、という程度の意識しかなかったのだが。
 ちょっと揺れたが無事着陸。秋田空港の前の歩道はちゃんと除雪してある――と思ったが、それは有料駐車場のところまで。更にその先にある、無料の臨時駐車場に至る道は除雪されておらず、10cm ほど積もったまま。わかりやすいなぁ、秋田空港。

 池袋の旭屋書店で『声に出して読みてゃあ名古屋弁』という本を買った。
 おや、と思って手にはとったが、別に、「声に出して読む」こと自体は、内容とは全く関係がない。その点では、従来の方言本である。落研出身者が書いたもので、こうした本でよくある、おもしろおかしく、という部分が小話風になっているのが、他のと違う、と言えば言える。

あいた」。
「飽きた」の名古屋弁形である。
 知っている。なんでわかるのかなぁ、というと、童謡の「ちょうちょ」が理由。
 この歌は、もともとは尾張や三河で歌われていたわらべ歌で、それを明治期に採取、補作した上で「童謡」とした、という経緯があるらしい。出自が歌詞に残っているわけ。

 名古屋といえば「にゃぁ」というのはかなり刷り込まれてしまっているのだが、おそらく東北弁の「(場所) 」と似たようなレベルだろう。これは、元々は関東以東 (北) の表現なのだが。正確なところは知られてないのではないか。
 人によっては、名古屋では「にゃぁ」とは言わない、と言う人もいるらしい。正確には「ねゃぁ」なんだとか。この本では「にゃぁ」だが。

 こないだめっさ」について書いたが、「めっそ」という語があるらしい。意味は「目分量」。

 後半部には「この名古屋弁で歴史が動いた!」と題して、名古屋紀元の有名人のエピソードが紹介されている。
 と言っても、信長でも秀吉でも家康でもない (名古屋じゃないけどな)。
 ブラザーとメニコンが愛知発祥とは知らなんだ。で、鈴木バイオリンと日本ヘラルド映画の創業者がまた愛知なんだって。
 ビジネスマンは読んでみると面白いかも。

 この本は、書店の本棚では、正しい日本語の本というような本と一緒に並んでいた。
 その隣に『あらすじで読む日本の名著』がある。1 冊で 30 弱の作品が取り上げられているのだが、これはなんのための本だ?
 と思ったので、巻頭にある編者の文章を読んでみる。埼玉の校長先生が、生徒たちが文学から離れているのを憂えて作ったという。そこまでは「け」と思っていたが、驚いたのは、要約したのが、その学校の先生たちだ、ということ。これは本気だな、と見方が 180 度、変わった。この本自体には強力にプラス評価をする。
 だが、聞くところによると、この本の読者の大多数はいい年こいた大人だという。では、ここで問わねばなるまい。活字離れしているのは、子供だけか?
 未知の何かを調べるに当たって、広く包括的な知識を必要とする場合、教科書や参考書は手頃な材料だという。その伝で言えば、これは活字離れしている大人にとっては恰好の入門書と言える。では勿論、これを足がかりに原作を読んでいるのだろうな。昨今、文庫からいわゆる「名作」がどんどん消えていっている、ということが問題になっているのだが、そのことはじきに、この本の売れ行きに比例した大きさで取り上げられるのだろうな。
 まさかとは思うが、そういうので「読んだ」気になって、日本語が乱れている、とか口にしたりしてはいまいな。
 勿論、その本の読者と、「正しい日本語」信者のクロス統計を取ったわけではない。ひょっとしたら、全く重なってないのかもしれない。だが、その姿勢の安易さには薄気味の悪い共通性を感じる。*1
 あらすじで 30 作分読むより、オリジナルを 3 作読んだ方がよっぽど実になる。これこそが、現在の、貧弱な言語生活の実態であろう。*2




*1
 本屋も本屋である。こういう本の隣には、「日本語の誤用」の本ではなく、原作を並べなければならない。(
)

*2
 芸術は芸術単体では存在しえない、というエピソードがある。俺の知人の話である。
 彼の友人が芝居をやっていて、イプセンの「
人形の家」に参加する。それを職場で話題にしたところ、それなんですか、という奴がいた。
 これ、少なくとも俺の時代の教育内容では、世界史の教科書に載っていた。したがって、俺はこの作品を読んだことはないのだが、この作品は強烈に時代を背負っているので、その時代の雰囲気と重なった形で、大まかな雰囲気を思い出すことができる。
 つまりその人は、国語科も社会科もちゃんとやらなかったのでは、と疑われるようなことを言ってしまったことになる。*3
 わが知人がなんと説明したかというと、「専業主婦が目覚める話」。まぁ、そんな感じである。()

*3
 注釈の注釈で恐縮だが。
「正しい日本語」信者の中には、明治期の文学を読んだことのない人がいる。いや、かなり多い。
「正しい」の定義を「これまで使われてきた」という点に置くとすると、100 年位前の日本語の状態は知っていなければなるまい?
 文庫で数百円、文庫は書店では見つからないことも多いが図書館に行けば間違いなくある (しかもタダ)、それに触れもしない。「自分はそう言わなかった」というだけで他者の表現を否定する。
「最近の若い者は」という言い回しは古代エジプト文明にまで遡る。日本文学をたしなんだ人なら『徒然草』を挙げる事もできるだろう。あなたの日本語だって、あなたの先輩からみたら「間違」っているかもしれないのだ。
「正しい日本語」を論じたいのなら、歴史の知識は必須である。(
)





"Speak about Speech" のページに戻る
ホームページに戻る

第372夜「機械の寿命」へ

shuno@sam.hi-ho.ne.jp