揚げ足取りなら“
Fault-finder”の方でやれ、という話もあるのだが、実は最近、ネタ切れを起こしかけていて、ちょっとでも方言と接点があれば、こっちに書いてしまうことにしている。あっちの更新がずっと止まっているのと、こっちの方言濃度が低めなのはそのせいである。
いろんなホームページを読んでて気づくのは、間違いが多いことである。
論旨の迷走とか、事実認識の間違いなんてのは (自分のも含め) ある意味、可愛いもんだと思うのだが、英単語のスペルミスがあまりに多い。
間違いの多い単語も固まっているようだ。
まず「日記」。
これは、“diary”である。“dia
ly”ではない。
Google で“dialy”を探してみると全世界で 87,000 件あった。それはまぁいい。対象を日本語のサイトにしてみると、43,000…。
Google がどういう基準で日本語のサイトかどうかを判断しているのか知らないが、半分が日本だ。日本人の英語は、と嘆きたくなる人の気持ちもわかる。
ただし、これは、意味から考えて“daily”のミスタイプを含んでいる可能性もある。
次が「情報」。“infomation”ではなく“info
rmation”である。全世界で 558,000、日本で 109,000 と、比率は下がったが、数は増えた。
どっちも、文字での記述しかヒットしない。画像の文字 (「レタリング」って単語、聞かなくなったなぁ) を数えることができれば、もっと増えるはずだ。
恥ずかしいってば。
間違いを指摘されれば、(普通なら) 人は修正する。
が、その間違いの性質について詳細な説明がなかったり、理解できなかったりすると、修正するべき場面で修正しなかったり、修正するべきでない場面で修正してしまったりする。
後者を「過剰修正」、英語で“hypercorrection”と言う。「ハイパー」かぁ。
*1
前に、東北弁では「イカ (烏賊)」が「
イガ」と濁音化することから、濁音化はすべて方言形である、と思い込んでしまい、栗の「イガ」をも「イカ」といってしまう、というような例を挙げた。
Yeemar さんの「
ことばをめぐるひとりごと その11」には、北海道で「ダイコン」が「
デャーコン」となるため、「エァ」という音は全て方言形だとして、「キャベツ」の標準形を「
カイベツ」と言ってしまう、という例が紹介されている。
「
サブカルチャー言語学」の「
『イケメンゲッチュ』に見る外来語の『新』表記」には、「ヒ」を「シ」と発音する東京方言話者が、「布団をシく」でいいところを「布団をヒく」と言ってしまう、という例があるのだが、これは、「引く」と漢字で書ける上、「布団を引く」と表現することに動作上の納得性がある (たたんである布団を使える状態にするときには、布団の端を持って引く動作が伴う)、という特徴がある。そのため、「布団を引く」と言う人は、東京方言話者に限らず、割と多い。
TM-Network 時代の宇都宮 隆氏は英単語の「シ」「ジ」はほとんど‘si’/‘zi’で発音する。“Asia”も [eizia] となってしまっているのだが、これはどっちかと言えば‘j’で、日本語で「エイジャ」と発音した方がまだ近い。これもおそらく過剰修正である。
*2
間違いの性質、ということに踏み込むと、東北弁は確かに濁音が特徴的だが、何度か書いた通り、あらゆる音に、あらゆる状況で濁点がつくわけではない。上の例に倣って、「カ」で終わる 2 モーラ (音の数) の単語を考えてみると
などは「ガ」ではなく「カ」のままだ (あくまで俺の内省だが)。
最初の 3 つのグループは、「羽化」「地価」「束」と、滅多に使わない単語だ、ということが言える。日常生活で頻出する単語でないと方言的特徴を帯びるのは難しい。いや、秋田弁を話す生物学者や経済学者や歴史学者を知らないので断言はできないが。
「シカ」は「鹿」「歯科」などがある。普通の単語だが、これも「シガ」とはならない。
早い話、有声か無声か、ということだ。こういう「シ」は“shi”ではなく“sh”と表記したほうが実際の発音に近い。つまり、母音がほとんど響かないのだが、こういうケースでは濁点はつかないのである。なので、秋田ネイティブの経済学者や歴史学者は「地価」「束」を「チカ」「ツカ」と発音するはずだが、「羽化」は「ウガ」になる可能性が高い。
秋田でも、有声音優位の地域では「シガ」になるかもしれない。
これはまぁ、たまたまそういう説明ができる、ということであって、栗の毬は標準語形でも「イガ」なのだということを知らないと、「イ」が有声音 (当たり前だ) であるだけに、この現象を回避することはできない。「
カイベツ」「
布団を引く」も同様である。
つまり、既知のルールの適用、というテクニックに頼らずに、正しい形を知ることが肝要、ということなのだが、この「正しい」もなかなか曲者である。
「布団を引く」には「床をのべる」という別の言い方がある。こっちの方が格調が高くて、正しそうな感じがするが、あんまり使われる表現ではない。
「戸を閉める」は実は誤用だ、というのはご存知だろうか。戸は「たてる」ものなのだ。これを知ったのは数年前のことだが、そのとき、「戸の開け閉て (あけたて) は静かに」などという表現があるのを思い出して唖然とした。
これを正用だと押し通す人もそれほど多くはあるまい。消えていく表現というものは間違いなくある、ということだ。
変化もしかり。
エラい人の中に「ラ抜き」を非難する人は多いが、「サ入れ」はエラい人の発話に多い (文体が高いからだが)。個々の言語現象を並べていくと、各人で許容度は異なる。ある人にとって問題のない表現が、別の人にとっては誤用となるわけだ。そこを無視して「正しい」を使うと混乱のもとだ。
俺の周囲にも、誤用にやたらとうるさいのがいるが、そういうのに限って「この文章が皆様の心に残って
いただければ幸いです」などと平気で言う。「
お求めやすい価格」で引っかからない人に、美しい日本語、正しい日本語を云々する資格はないと思うのだがどうか。
去年あたりだったか美しい日本語関係の本がやたらと売れた。ああいうのも結局はハウツーものだ。エッセイとして優れたものもあるのだろうが、結局、雨後の筍が胡散臭くて読んでない。立ち読みした範囲では、「戸は『閉てる』ものだ」という類の、現実を無視した単なる古典回帰に見えた。それより (あるいはそれの例を手がかりに) 自分の力できれいな文章を探して読むべきだろう。自分で探さないと身にはつかない。
最近、読んだ中では、青木 玉氏の日本語がきれいだと思った。尤もこの方の場合、考え方やスタンスも含めてキリっとしているのだが。手元にあるのは『
手もちの時間』と『
なんでもない話』だが、もう少し
ゲットするつもりでいる。かつ、お薦めする。