この文章を書くのは訂正
(→) の意味も含めて、ということになるのだが、
ウルトラマンコスモスはめでたく放送再開である。
もともと、この 9 月までの放送予定だったので、例の騒ぎがあったときには既に全話の撮影が完了していた。特別総集編が放送できたのはそのおかげだが、放送中断の期間があるのに放送終了の時期が変わっていないので、再開とは言え、放送されずに終わるエピソードがいくつかできることになる。夏休み特集とかでやってくれんか、
毎日放送。ビデオ公開ってことになるのかなぁ。
このシリーズ、「子供番組」というくくりながら、かなり難しい、大人向き、というのが俺の印象。
「癒し」という言葉は胡散臭いので死んでも使わないが、「許す」ウルトラマンであるだけに、戦闘シーンは地味。だが、話の展開は非常にシビアだったり、いくらでも深読みできる、って筋だったりして、かなり奥が深いと思うのである。
さて、「子供」だが。
「
わらし」である。
一応、東北方面で広く使われることになっている。津軽では、「子供達」が「
わらはんど」になったりする。
聞くところによると (
富士を見る山歩き内の「私家版津軽弁辞典」、
宮城県「
みやぎの言葉」内「
家族の呼び名」)、「子供」は古くは「わらは」で「わらは衆」が「わらし」になったんだとか。そういえば「わらわ」って言うもんな。
大変に忙しいことを「おおわらわ」と言うが、これは「大童」と書く。武士が兜をかぶるとき、曲げを外して髪をだらっと下げてるところを時代劇なんかでご記憶の方もあると思うが (勿論、そのままじゃないのだが)、あれを子供のおかっぱに見立てて、「大きな子供」と表現したのがこれ。戦場で奮戦している様が元である。
これを「藁」と結びつける説もあるようだ(
山形大学内「
最上川を中心に環境を考えよう」−「衣食住」−「衣生活」)。
前から疑問なのだが、「子供」ってどうして複数形なのだ? その上、「子供達」なんて言うし。
「
わらし」は意味としては単数だが、それが「わらは衆」の変化したものなんだとすれば、事情は同じ。自分の子供は別格としても、子供ってのは群れでうるさいものだからか?
聞くところによると、「子供」って
差別語扱いなんだそうである。「供」が付属物を連想させるかららしい。でも、自立できてないよな、子供って。自立とか自律ができない大人も多いけどさ。
「供」は複数を意味する接尾辞だ、というのと、「子供」そのものが当て字である、という解釈があるようだ。後者の場合、表記を「改めよう」と思えば、「大人」を「大な」とは書けないのと同じで、当て字なのだから「こども」と書かざるを得ない、ということになる。
文字を字義どおりに解釈して表記を変えようというのなら、背の低い人は「大人」と呼ばれて不愉快な思いをするのではないか、ということも考えられる。これが極端な意見とか言いがかりであるとは、俺は思わない。
「子ども」支持者は、それが大人の側の一方的な論理だ、ということを見落としてはいないか。
子供を付属物扱いしてはいけないのだ、というのが先にくるべきだろう、という点で単なる言葉狩りのような気がするがどうか。
茶髪の幼児がいるけど、喜んでるのは親だけでしょ?
それで思い出したが、「ペット」は差別語である、とかいう話があるそうで、じゃなんと呼ぶのかっつーと「ノン ヒューマン コンパニオン」。
人間とそれ以外、って線を引いたこの単語の方がよっぽど差別的。
「
ぼっこ」というのは、「坊主」あたりから生まれたのだろう。意味もそういう意味なんだが、あいつは言動が子供みたいだ、というときに蔑称としても使われる。こういうときには「
わらし」とは言わない。
「
おぼこ」という単語は辞書にもある。「産子
(うぶこ)」が元らしいのだが、ひょっとしたら、これが「
ぼっこ」になったのかもしれない。でも、「ぼっこ」は男にしか使わないような気がする。「
おぼこ」はほとんど女性にしか使われない。
「機動戦士ガンダム」の名台詞の一つとして「坊やだからさ」というのがあるが、これなんか「
ぼっこだもの」「
ぼっこだぉん」とやるとドンピシャである。
反対に「大人」はどうかっていうと、単に「
おどな」である。
*1
ちょっと調べてみたが、あんまりない。
「父」「母」「長男」「長男の嫁」とかいう具合に細分化されてしまっている。やっぱり、子供って十把一絡げのものなのかもしれない。辛うじて「おせ」というのが見つかる程度 (宇摩サイバーシティの
宇摩の方言、
備中地方の方言)。
「子供」には、「大人」に対立する意味と、「親」に対立する意味がある。それが「子供」でまとめられてしまっているのだから、「子供は付属物ではない」とヒステリックになる人が出る理由もわからないではない。
そういや「親」に対応する俚言もないな。
コスモス周辺の騒ぎについちゃ、警察のやってることがなんか変だとか、お上の発表を鵜呑みにして訂正もしないマスメディアとか、色々と問題がある。前に取り上げた『
日本風景論』の共著者の一人、
切通 理作氏のサイトに詳しい。
サッカーの試合を見ないと非国民とののしられ、情報保護ぬきの総背番号制も始まり、世間はコスモスどころかカオス一直線である。
主題歌の一説にあるように、
力で勝つだけじゃ なにかが足りない
そして
闘いの場所は心のなかだ
“Spirit” 作詞:松井 五郎 作曲:KATSUMI
力のある人、心されたい。