実家に帰るとたまに珍しい酒を飲めることがある。
一番強烈だったのは、「どなん」という泡盛。数字は忘れたが、火気厳禁って感じのアルコール度数。旨いことは旨いのだが、粘膜がもたん、という感じがする。
「越之寒梅」も「〆張鶴」も呑んだことがある。廉価版ではなく、上位ランクのものらしい。
自慢に聞こえたら申し訳ないが、自慢するつもりは全く無い。なんでかというと…すまんが、俺にはあれが旨い酒だとは思えない。
聞くところによると、旨い酒を追求すると水に行きつく、とかいう話があるらしいのだが、水を一升買うのに一万円も出す気にはなれん。秋田の水道はそこそこ旨いし、店に行けば 200ml を \100 かそこらで売ってるし、ちょっと車で走れば名水をただで汲ませてくれるところはいくらでもある。
酒を呑もうと思って買うんだから、酒っぽくないと。この種の酒を呑むといつも「で?」と思ってしまうのである。
まぁ、世の中には、大吟醸! と銘打った酒に醸造用アルコールを入れる蔵もあったりするのだが。
さて、酒の国・秋田では、今月から大々的に CM を放映している。プロデュースはかの島森 路子氏。ナレーターには山谷 初男氏に浅利 香津代氏と秋田濃度の高いスタッフが、幾らっつったけな、かなりの金額を掛けてお送りする観光キャンペーンである。概要が
ここに紹介されている。
CM では、この両氏のナレーションに字幕がつく。
案の定、この字幕に噛み付く人多数。
「秋田弁は外国語か!」
外国語だと思うのだが。実質的に。
あなたが秋田衆だとして、例えば熊本の人が、いくらか抑え気味とはいえ、熊本弁でしゃべったら理解できるか。
「熊本に来てください」くらいならともかく、「熊本の名物料理は○○と△△があって、○○ってのは□□を◇◇したもので。そう言えば△△で有名な◎◎って地方には▽▽っていうお祭りが」となれば一時停止ボタンを押したくなるはずだ。その理解度は「外国語並」ではないかと思うのだがどうか。勿論、同じ日本語ではあるけれども。
この CM が呼びかけたい相手は、秋田県外の人なのである。そこを忘れてはいかん。それがコミュニケーションというものであろう。
まぁ極端な話、秋田衆がどう思うか、というのは二の次なのである。
それはそれとして、理解の難しい情報だけを提示してエキゾチシズムをかき立てる、という手法はある。
特に「
[食い道楽]編」なんかは、見ればわかる。いかにも旨そうである。こいつら (登場人物) 場所変えて食ってばっかりじゃねぇか、いいなぁ、そこは一体どこだ、あぁまた呑んでやがる、早く教えろ、どこだどこだ、と焦らしておいて、最後に「ま、ま、そのまま、そのまま。秋田県」を出す。「よし、秋田、行こう」と思わせる。それはテクニックとしてあるだろう。
こういうのはどうか。
山谷 初男、浅利 香津代に加え、柳葉 敏郎、藤あや子、落合 博満、桜庭 和志、加藤 夏希、のはらひろし と ぎんのすけ、加藤 鷹、明石 康
(敬称略順不同) あたりを居酒屋に呼んで、酒を呑ませ (未成年もいるが)、ひたすら秋田を語らせる。全国共通語 (英語も) 禁止、字幕なし。30 秒もやれば充分だろう。
そういう観点から「字幕」の是非を論じた意見にはお目にかかっていない。
新聞で、耳の不自由な人にとっては字幕は大事な情報源なのだ、という投書があった。
最近のバラエティ番組で、出演者の台詞を字幕で出すのが多いが、あれはそういう情報源として機能しているのだろうか。そもそも制作側はそういうつもりでやっているのか?
この文章は、「秋田弁は外国語か」という話をしている。耳の不自由な人を排除するつもりは全くない。為念。
やっぱり、自分の里の方言に対して、過度に愛着を持つと、「字幕?!」という感想を持つのかもしれない。
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こないだ、自分が方言話者であるという認識を持てない東京弁話者、という話をした。他の人の言葉が自分と違う、ということは、自分の言葉が他の人と違う、ということなのだ、ということに気づけない。それと似たような感覚。「愛は盲目」という奴か。中華思想なのかもしれないが。
方言も観光資源。
あの CM を見て秋田に観光に来た人は、どの道、「あれは何を言っているのか字幕があってもわからなかった」とか言うに決まっているのだ。それをきっかけに話を膨らませていけばよい。
大した問題ではない。
で、「これが酒の秋田で買った大吟醸だ!」と土産に渡した瓶に、「醸造用アルコール」なんて書いてあると、秋田の評判がガタっと落ちるので、ぜひともやめて欲しい。
酒はやはり、「そのまま」がよい。