Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第281夜

「通じる」ということ




 いや、またこの話なんだが。

 大阪在住の詩人、島田 陽子という人のエッセイが新聞に載っていた。
 作品が教科書に載っているというから有名な人なのであろう。申し訳ない。俺はちょっと韻文を苦手とするタイプなのでよく知らないのだ。
 その作品というのが、大阪弁なんだそうな。

 大阪弁で、赤ん坊のことを「ややこ」と言う。これを生かした作品があるそうで、一節を引用すると
おやおやややこ
おやまにややこ
おやにだかれて
ややこがのぼる
 これは確かに面白い。韻文の面目躍如、という感じだ。大阪弁以外では、この作品は生まれ得ない。
 が、「(共通語で童謡を書くのに苦心していたが、ある日、大阪弁を使ってみたら)いいたいことが自由自在に書けるではないか。驚いた。犯人はことばだったのである」となると、俺はやはり、そうかなぁ、と言いたくなってしまうのだ。

 まぁ、書く方はそうであろう。自分の生の言葉に近い方が、生き生きとした表現ができる、ということはあるに違いない。
 だが、読む方はどうか。
 大阪弁で書いた詩を理解できるのは、大阪弁を理解できる人だけだと思うのだが。それは、日本語を理解する人のうちの何割だろう。

 氏が言う、「子どもたちが大阪弁で詩が書けることを知ってくれるのがうれしい」は全くもって同感である。全国共通語でなければならない、という考えに陥らないようにすることには意味がある。違っていい――というより、違っているべきだと俺も思う。
 だが、違う、というのは、意志伝達に齟齬が生じる可能性がある、ということなのである。島田氏に限らず、「方言を愛する人」の注意はそこに行っているだろうか。

 大阪ネイティブの人は、こういった詩を読んで違和感は覚えないだろうか。
 俺なんかは、活字になった秋田弁には違和感を覚えるのだが。勿論、自分の文章も含む。
 あぁでも、大阪弁や京都弁は 50 音と相性いいから、そうでもないか。

 それに、教科書を使った教育、というものに対する不信感もある。
「大阪弁だからいいんだよね」という解釈に陥らないという保証もあるまい。現実問題として、大阪弁は、東京弁についで全国的な理解度の高い方言なんである。きちんと説明し理解させないことには、方言を序列化しただけで終わってしまう、という可能性もあるのではないか。
 ただ、地域別の教材というのも確かにある。それをどの程度まで使いこなすかは学校や教師によって違うとは思うが、方言を使った詩を書かせたりしているところはあったような気はする。

 小学生に方言のポジションを教える、ということについては、若干の問題はあるかもしれない。
 そもそも理解できるかしらん、という気はする。
 行動範囲が広がるにつれて、ほっといても体得していくでしょう、ということは言える。そのとき、無条件で「方言はダメだ」と考えなければいい、という話ではある。
 それをやるのはおそらく、学校ではない、と思うのである。
 親だろう、やっぱり。

 体得ってことで言うと、やっぱり、東京弁話者とそうでない人との間では感じ方が違うだろう。メディアに載っている方言、という点では。
 東京弁話者がメディアの日本語を聞くと、ほとんどは自分と同じだがときどき違うのが混じっている、と感じるはずである。だが、それ以外の地域の人は、その反対になる。これだけ違うと、「あれ、自分の言葉って使っちゃまずいのかな」という気になるのはやむを得ないことである。それの極端な例が、前にも書いたが、自分の言葉を方言と認識できない東京弁話者、となる。

 お前は方言を残したいのか残したくないのかどっちなんだ、と言われそうだが、正直言って、どっちなんでしょうねぇ、というところだ。統一だけは勘弁して欲しい、とは思っているが、自分の言葉が通じない、人の言葉理解できないというのも、困る。
 昨今、嗜好の多様化、幅広い選択肢の提供なんてことが言われるが、一方で、各企業の合併だの提携だので、規模が大きく数が少なくなってきている。
 なんか、方言に関するあれこれと似ているような気がする。





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