Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第264夜

ことばのウチとソト II




 前回の続き、というような感じになる。
 今日の本は、『日本語は生き残れるか -経済言語学の視点から-』。

 この本は、今年の頭に取り上げた『日本語の値段』と相互補完の関係にある。割とショッキングなタイトルだが、是非、読んでみて欲しい。
 へぇぇ、と思ったのが、映画のタイトルにおける日本語・英語の比率である。
 これについては、1990 頃だと思うが、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」という題で驚いたことを思い出す。「ザン」は「イン」の誤植ではないか、と疑った。それなら、英語を苦手とする人でもなんとなくわかるだろう、と思う。だが、「ザン」なのである。形容詞の比較級。これは「楽園の異邦人」より一段階、高級な英語だ。
 で、60 年代と 90 年代とを比べると、60% あった意訳 (“Summertime”→「旅情」) が 45% に減る。半分もあるんだ、というのが素直な感想。もっと少なくなっているかと思っていた。
 激減しているのが直訳 (“The Birds”→「鳥」) で、20% あったのが 5% になっている。代わりに増えたのがカタカナである。
 一昨年だったと思うが、「スターシップ・トゥルーパーズ」という映画があった。原作は『宇宙の戦士』という、「機動戦士ガンダム」のアイディアの元になったという話もある有名な小説なのだが、配給側には「宇宙の戦士」にしたくない理由があったのだろうなぁ。同時期に「ロスト・イン・スペース」というのもあった。テレビ シリーズの日本での題名は「宇宙家族ロビンソン」だった。原題はどちらも“LOST IN SPACE”である。

 で、この本を読んで思ったのだが、やはり、方言を捨てて全国共通語に移行することには、経済的なメリットがある。秋田を一歩も出ないで一生を終えるのならともかく、そうでないのなら、全国共通語を全く使わずに生きるのは至難の業である。それは、程度の違いこそあれ、秋田衆だろうが、大阪者だろうが変わらない。
 で、各地の方言と全国共通語は、同じ日本語なのだから、かなり似ている。相互に影響を与えて、誤用を誘発する。あるいは、「気づかない方言」のような現象を引き起こす。
 それによるコミュニケーション障害を避けようと思えば、どちらかを捨てた方がいい訳である。

 そこで気になるのが、この本に出てくる「言語忠誠度」ということばである。
「中華街」なんてのが世界各地にある。そこで使われるのは、勿論、中国語である。
 だが、ブラジルやハワイなど、多くの日本人が海を越えたが、そこで現在、使われているのは日本語ではない。
 つまり、日本人は、それが不利になるとわかれば、簡単に自分の言語を捨てる傾向があるのではないか、というのである。*1
 これを方言に引き寄せるとどうなるかは言うまでもあるまい。

 続いて気になるのは、「言語他殺」。
 言語が死ぬのには「他殺」と「自殺」がある。「自殺」は、言語そのものが形を変えていって、ほかの言語に置き換わってしまうことを言う。
「他殺」の方は、その言語を使ってられない、という状況になってしまうことである。
 方言の場合、両方がある。
 日本語と英語、という点で見ると、確かに外来語は多く流入しているが、構造があまりにも違うので、そういう点での「自殺」はあり得ない。*2
 だが、全国共通語と秋田弁は、それと比べると酷似していると言える。置き換えは容易である。*3
 また、方言を使っていて損をするケースは実際にある。そういう経験を繰り返すと、好むと好まざるとにかかわらず、「殺」さざるを得ない、というのは現実問題としてある。

 前の方で、秋田県を一歩も出ないで、という話をしたが、仮に県内に留まるとしたって、もし大館の人と本荘の人と横手の人と付き合うことがあるとすれば、その違いにはどうしても触れることになる。
 もし、それに気づかないとすれば、それは大館の人が、秋田市の人であるあなたに対して気を使っているからである。
 本来、東京弁も秋田弁もれっきとした一方言で対等だとするなら、秋田 (市) 弁も横手弁も対等なはずである。だが、現実にはそうではない (これをきちんと認める、というのが井上氏の言語経済学ということだ)。
 そこに気づかないで、俺は秋田弁で行く、というのは、残念ながら傲慢というものである。

 単に、違う、というだけなら、秋田弁しか使えない人と、東京弁しか使えない人が商売をする場合、どちらも困る筈である。だが、現実には、秋田弁しか使えない人の方が一方的に困ってしまうことの方が多い。
 それは、秋田衆は東京の人が言っていることを理解はできるのに対して、東京者は発話は当然のごとく、理解することすらできないからである。
 それに、ここが重要なのだが、金を持っているのは東京者の方である。彼らからみたら、秋田衆は唯一の存在ではない。俺と商売したかったら標準語を勉強しな、と言える。
 というと、なにを卑屈な、と思われるかもしれないが、この図式は、国際的なビジネスにおける英語と日本語の関係と同じなのだ。

 田舎で成功すると、東京に進出することが多い。進出しないと、田舎でくすぶっていると言われる。
 だが、俺と商売をしたかったら秋田弁を勉強して秋田に来い、というのが本来あるべき姿なのではないか、と思う。




*1
 条件というのはこうである:
日本人は、ことばの社会的・経済的上下関係に、敏感である。下位と見なす言語に対しては、日本語を押しつける。しかし上位の言語とぶつかったときには、日本語を簡単に捨て去る。
第七章 日本語の未来 日本人の「言語忠誠度」
(
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*2
 前にも書いたが、「ドライブ」という外来語はあるが、「昨日ドライブをした」ということを「ドロウブ」「ドリブン」などとは言わない。
 よくカタカナ語の流入に絡んで、明治期の日本人はカタカナ語を使ったりしなかった、という人がいるが、そこで使われた表現の多くが漢語という外来語であったことは要注意である。生み出されたのではなく、借りたのである。 (
)

*3
「チョーいずい」というような例外もある。これは「いずい」が他の方言の単語では置換不可能な表現だからである。(
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