Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第227夜

ふるさと日本のことば (17) −福井、東京−



富山県−見てみられ (3/18)−

 ゲストは立川志の輔。
 に、お笑いの世界では、西日本の人は大阪へ、東日本の人は東京へ、という話をした。岩手出身の酒井くにお・とおるが大阪に行ったのは珍しい例ではないか、と書いたのだが、志の輔が東京に行ったのも珍しい例か。それとも、実は多いのかね。
 本人は、江戸落語をはじめてしまったのでアクセントで苦労した、と言っていたが。
 この番組に落語家が出ることは多いが、立川流は二人目だ。
 志の輔はしゃべりを抑えている感じがある。特に前半。さすがに NHK 慣れしていると言うか。

 北陸で、どこからが西日本か、というのも興味深いところである。
 蓑島氏によれば、その境目は、昔は新潟と富山の県境付近にあったのだが、今は西へずれて富山市付近にある、ということである。正しくは、東日本ではなく、東京が進出してきているのだろう。
 富山県は、中央部の呉羽山を境に、呉東・呉西とわけるらしい。
 呉西の新湊出身の志の輔に言わせると、呉東のしゃべり方は「東京の人じゃないか」なんだそうである。東日本イコール東京というイメージが、ここでも確認できる。

 魚津市のおばあちゃんによれば「まめで息災そりゃ面倒」というフレーズがあるんだそうな。元気な年寄りは近所迷惑である、という話。
 俺が言ったんじゃないぞ

 面白いのは「つかえん」。
「このパソコン使っていいですか」「つかえん」という風に使う。
 これは、「差し支えない」で、使ってもいい、ということなんである。外から来た人にはわかりにくいなぁ。

 五箇山地方の平村では、敬語としての「おまえ」が残っている。
 これは前に長野でも出てきた。新潟との県境付近だから、近いといえば近いが、行き来があったとも思えないなぁ。
「旧正月」のことを「ちょんまげ正月」と言うんだそうな。何故だ?

 富山といえば薬売り。昔のものだと思っている人もいるようだが、乗り物が車に変わったとはいえ、今でも現役である。こないだ女性の「ばいやくさん」を見た。

 相手を思いやる気持ちがある、ということを熱弁していた。どの方言にもないんじゃないかと思う、とも。
「ありがとう」という意味の「きのどくな」などを指しているのだが、「ありがとう」と言うときに相手を思いやる気持ちがない、ということはあるまい。
「『食べろ』でいいのに『食べられませ』と言う」と言っていたが、「食べられませ」に対応するのは「お召し上がりなさい」であろう。
「『食べろ』でいいのに」と言うあたり、志の輔も意外に「標準語」に囚われているようである。

落語家 立川志の輔
方言研究家 蓑島 良二
富山放送局 望月 豊

東京都−ご覧ください (3/25)−

おまいさん」だが、確か木の実ナナの歌で『おまえさん』というのがあったような。字は自信ないが。結構好きだったりする。1 コーラスだけなら空で歌えるぞ。
 で、例の「ひ」「し」で自分が東京弁話者であることに気づき、「あぁ私にもふるさとの言葉があったんだ」とほっとしたんだそうだが、この辺が東京に生まれ育った人の悲哀だろう。
 ひょっとしたら大阪や名古屋の人も似た感覚を持っているかもしれないが、都会は「ふるさと」にはなりえない、という固定観念がある。
 そう言えば、東京の人間が使う「田舎」という言葉には、「ふるさと」という意味がある、というのを聞いたことがある。「田舎があっていいですねぇ」というのは、別に鄙を馬鹿にしようというつもりはなく、「ふるさとがあっていいですねぇ」という程度の意味なんだとか。
 こちらとしては、生まれ育ったところがふるさとだろう、と思うのだが、やっぱりコンクリート・ジャングルは「ふるさと」とは呼びにくいらしい。それは「田舎」じゃなきゃダメってことなんじゃないの?
 また、「東京の言葉」イコール「全国共通語」という固定観念もある。
 番組後半で出てくるのだが、下町や山の手のネイティブであれば、自分の言葉と全国共通語 (標準語) が違う、ということに気づく機会もあるだろうが、それ以外の人々はなかなか難しいだろう。
 そういう人に、自分はどういう言葉遣いをしているか、と聞くと「テレビで言っているような、普通の」「まぁ普通の標準語」「ニュースの人が使っているような言葉」という答えが返ってくる。
 まぁ、「普通」でピクっと反応してしまったり、自分の言葉は全国どこに行っても通じる、というまるでアメリカ人のような意識を感じたりしてしまうのは、田舎者の僻みかもしれないが。
 皆さんはニュースの言葉で普段から会話しているのですが、と聞くと「そう言われれば違う」とうろたえる。こちらの僻みとは別に、自分の言葉遣いが意識に上ることが少ない、というのが実態だと思われる。

 各地の言語現象を見てきて、例えば無アクセントや一型アクセントの地域みたいに、言語形成期を過ごした地域の特徴から脱出するのはかなりきびしいのだ、ということがわかった。
 が、江戸の人には申し訳ないが、「ひ」「し」の混同はわからない。ちょっと気をつければ区別できそうな気がするのだが。
 まぁ、英国人も日本人の英語を聞きながらそう思っているのかもしれない。

 さて山の手言葉。まがい物ではなく、本当の良家。
 数十年来の(昭和 40 年頃を「最近」と言えるくらいの) 付き合いであっても「座ってご覧なさいませ」と言ったりする。
 付き合いづらい、と言われることもあるそうで、本人も気にして「くずして」、「標準語」をしゃべろうとしているつもりらしい。標準語のほうが格下という見方は新鮮である。
 これは今でも問題になるのだが、形容詞を丁寧に言う場合。
 動詞なら、単に「ます」をつければよい。「つけます」「言います」「問題にします」。
 形容詞の場合は、「くございます」とするのが本来の形なのである。大抵は音便化して「痛うございます」「赤うございます」となる。
 これでは丁寧すぎる、格式ばっている、という印象があるのだろうが、ダイレクトに「です」をつける形が、かなり前から採用されている。「痛いです」「赤いです」である。
 昭和 40 年代に駅のアナウンスの「危ないですからお下がりください」で投書があったと言うが、すでに一般化していると言わざるを得ない。
 が、俺個人は避ける言い回しである。なんか小学生の作文を聞いているような気がする。かと言って「ございます」は使えないから、「痛みます」「赤くなっています」などで逃げる。
 これも「痛いですね」と「ね」をつけると抵抗が弱くなるから不思議だが。口語としては認知しているということか?

 さて、この番組のメモを取りながら思ったのだが、漢字変換がスムーズである。「てやんでぇ」みたいなのを別にすると、全く問題無しである。「痛うございます」も一発だから驚く。
 つまり、仮名漢字変換のメーカーは、「痛うございます」を標準語あるいは全国共通語と捉えている、ということである。
 これは、わざわざ「標準語」を話そうと心がけている当人達の意識とは異なる。

 八丈島。
 どっから来たのか、という問いに「東京から」と答えるアナウンサー。八丈も東京だっつの。

 東京の言葉として最も支持が多かったのが「」だそうだ。なるほどね。東京全体じゃなくて、下町の概念だけどな。
 本当は、生き方まで含む、かなり難しい言葉だったと記憶している。反対語は「野暮」。
」ってどんなのですか、と山の手のおばさまに聞くと「山の手は野暮ですから」と答える。この余裕が「山の手」なんだよな。田舎だ都会だ白金台だと騒いでいる内はダメダメなんだ、ということである。

 個人的には、非ネイティブの話題を避けたな、という気がしている。日本で最もネイティブ率の低い街、東京。実は、東京弁を形作っているのは彼らなんである。
 まぁ、それをこの番組の枠内でやれ、というのはちょっと無理かもしれないが。

女優 木の実ナナ
國学院大学 久野マリ子
金沢放送局 飯田 希久男

 最終回。まずは、「方言」を扱ってくれたスタッフの皆さんに感謝。これで「方言でしゃべってもいいんだ」と自信を持った人は少なくないことでしょう。視聴率はどんなもんだったんでしょうか。
 お疲れ様でした。

 今まで書いてなかったが、この番組のサイトは http://www.nhk.or.jp/a-room/kotoba/




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第228夜「地に足」へ

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