Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第209夜

ふるさと日本のことば (11) −沖縄−



 いきなり三線 (さんしん) の演奏から始まる。いつもと違う。録画しそなうところだった。
 違うのも当然。今回は那覇での収録なのだった。
 しかも公設市場の食堂。
 いつもこうすりゃいいのに、と思ったりするが、国井アナは番組をたくさん持ってて大忙しの人。そうもいかんだろうなぁ。
 それにしても、かなり楽しそうだ。はしゃいでいる、と言ってもいいくらい。
 沖縄には昔から関心があって、旅行に興味のない俺が行ってみたいと考えているところの一つである。俺も公設市場でゴーヤチャンプルーとソーキそば食いたい。

 早坂 好恵って割と好きなんだよな。ちょっと浅香 唯に似てる。目なんか特に。いや、そういう話じゃなくて。
 話し方を聞いていて思ったのだが、故郷に対する思い入れが、押し付けがましくなく、引いているわけでもなく、非常に自然である。
 記憶に間違いがなければ、彼女は沖縄の踊りの師範の資格を持っていた筈。色んな意味で、適切な選択ではなかったかと思う。

 柱は、国際性・島ゆえの特殊事情・抑圧・若者達、の四つであろうか。
 ちょっと、国際性の面が弱かったような気がするが。
 何せ、石垣島や西表島からは、沖縄本島よりも台湾のほうが近い、という環境。国際的な貿易で琉球王朝が栄えたあたり、もうちょっと詳しく扱っても良かったのではないか、と思う。尤も、この話は昨今の沖縄ブームでだいぶ知れ渡ってるようだからいいか。

 沖縄本島から宮古島までは 600km. 東京〜岡山の距離に匹敵するそうである。それに、それぞれの島が海で隔てられているので、人の行き来が制限され、その結果、言葉が違ってくる。人頭税が絡んでくるので、島内でも別の村への移動が制限されていたそうだ。
 沖縄方言、宮古方言、八重山方言の三つに分類されるが、それぞれが、全く違う。
 番組中で「ようこそいらっしゃいました」なんてのを比べていたが、「めんそーれ」「みゃーち」「とぅーさ」と共通点がない (ような気がする)。知識としては知っていたが、これほど違うとは思わなかった。
 大神島の発音はちょっとウムラウトだったな。

 与那国島から沖縄本島に移ってきた人は、自分の言葉のほかに、沖縄本島の言葉、さらに共通語をマスターすることになる。最初は、沖縄方言が全くわからなかったというから、その苦労は並大抵のものではあるまい。
 国井アナ、それを評して、「3 か国語を操れるなんてすごいなぁ」。
 いささか無責任って感じがしないことはないが、よく考えてみると、それはスゴいことなんだってことは積極的に言っていかなきゃいけないのではないか、という気もする。
 引越ししてしまえば自分の方言を使わなくなるから、それを捨てて (多くの場合は全国共通語に) 置き換えてしまうのは楽である。それをせず、自分の言葉を維持して、domestic polyglot となることは、スゴいことなのではないか。

 今の若者達の言葉は、全国共通語の影響を受けて変質している。これは「ウチナーヤマトグチ」と言われる。「ウチナー」は「沖縄」、「ヤマト」は「大和」で日本本土、「クチ」は「口」で言葉を指す。
 これは、若者達が依然として方言を捨てていないことの証明ではあるが、やはり年長者からは嫌われる言葉遣いである。この点が指摘されていなかったように思う。
 で、若者達曰く、沖縄方言は「意味が分かりやすい」「なんか (はっきり説明できないけど) 伝わる」と頼もしい言葉が続く。「カッコいい」と言われたひにゃのけぞってしまうが、なんで「カッコいい」かと言うと「自分が使えないから」だそうで、決して楽観できるものではない、ということがわかる。

 さて方言札である。
 告白するが、ちょっと目が潤んでしまった。
 島外に出たときに苦労するから共通語を身に付けさせてやりたい、という気持ちはわからないではない。
 だが、方言札のシステムはこうだ。
 方言を使ってしまった子供は、方言札を首に下げさせられる。ただし、他の子供が方言を使っているのを見つけたら、それを渡して自分は逃れることができる
 いきおい、子供は鵜の目鷹の目で他者のあらを探すようになる。それが教育に携わる者のやることか。そもそも、他人から言葉を奪おうと思った時点で、人間としてアウトだけどな。
 そんなわけで、この国が沖縄にしてきた仕打ちにまで考えが及んで、不覚にも涙、というわけだ。
 これが大昔の話ではなく、下火になっていたとは言え、昭和 40 年代まで行われていた、ということは覚えておくべきだろう。地方の時代、というのは今に至るまで、口先だけのものである。

 全国共通語をマスターしておいたほうが何かと得なのは事実である。このことは、言葉の経済力という観点で論じられることがある。
 方言なんかなくなってしまえばいい、という人は「通じなくて困る」ということを理由に挙げる。しかし、世の中、ストレートに理解できるものばかりではない。絵画、詩歌などがいい例である。
 が、こうしたものは経験をつんだり、情報を仕入れたりすることによって理解できるようになる。理解できるようになった途端、広くて深い世界があることに気づき、それが感動を呼ぶ。
 これと同じ観点で考えれば、言葉が通じるとか通じないとかいう問題は、文化の領域なのである、と言うことができるのではないか。
 こうして、「いいんだよ、通じなくて」という過激な表現が口をついて出た。
 「生活の場において」という限定つきながら、「標準語なんていらない」と宣言してみようと思う。

 そういやホームページ
 <IMG> タグの ALT がむちゃくちゃだ。熊本のページからのコピーだってことがバレてるぞ。

タレント 早坂 好恵
琉球大学 狩俣 繁久
那覇放送局 井上 二郎




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