なんでかわからないが、急に井伏 鱒二の『
山椒魚』を読みたくなった。
あのクライマックス、「
それでは、もうだめなようか」というフレーズを思い出したのである。
が、そこは日本という国の書籍事情の貧困さで、誰でも知ってる作家だというのに、そこらの本屋では手に入らない。文庫にあるだろうとあたりをつけてあちこち探してみたが、無い。聞くところによると、こうした名作と呼ばれる文学作品の出版点数は激減しているのだそうだ。
まぁ、本の売上ランキングにゲームの攻略本が顔を出している辺り、情けない限りである。攻略本を買うという行為もナニだが、マンガは別扱いにしてるくせに、ゲーム本を
書籍売上のランキングに載せてしまう出版界の根性が情けない。
まぁ、名作を読む方法として一番確実なのは図書館に行くことだろう。
だいぶ前に、
西木村の「
全国ありがとう文庫」に、本の整理を手伝いに行った。
西木村には本屋もなければ図書館もない。そこで、引越しなどで不要になった本を分けてもらおうと全国に呼びかけたところ、駅や役場に読書コーナーが出来れば、という当事者の目論見を大幅に越える本が集まった。俺も見たが、教室二つが本で埋まるくらいの量。本というのはある種の威光を持っているものだが、こうなると別の迫力を感じる。
同時に、「不要な本」がそれだけある、という事実にも驚く。
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確かに、我々が整理した本は、詳しくは書かないが、有名な多作系作家の推理小説が多かった。こいつらの本は一度読んだら用なし、というわけである。
もう一つ多いのは、文学全集である。一体、何セットあったことやら。
話が一向に方言に繋がらないが、気にせずに逸れつづけると、
角館町に
新潮社記念文学館がある。行くまで知らなかったのだが、創業者は角館の人だったのである。
高校生の頃に胸をときめかせた桃井かおりの広告などが展示されている。あれ欲しい。
そこに過去のベストセラーのデータがあるのだが、かなりくだらないものがベストセラーになっていることが良くわかる。この傾向は時代が下がるほど強い。
本読もうぜ、おい。
で、『山椒魚』そのものは、自転車のレースに行ったとき、岩手県水沢市のデパート内にある書店で岩波文庫版を見つけた。小さい癖に岩波文庫が充実しているという珍しい本屋である。
『山椒魚・遙拝隊長』というタイトルで \360. 安い! これでは儲けも少なかろう。志の低い本屋が文庫を扱いたがらないのもわかるような気がする。
改めて読み直し、非常に短い作品だということを改めて知った。国語の教科書に載ってると、これでも長いけどな。「
今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」の余韻に浸る。
やっと話が方言に繋がるのだが、「
『槌ツァ』と『九郎治ツァン』はけんかして私は用語について煩悶すること」という作品がある。
筋は読んでもらうことにする。ある村で起こった、父母を何と呼ぶかで生じるちょっとした騒動が描かれている。
前にもちょっと触れたが、小作層と地主層とでは父母の呼び方が異なることが多い。そこで階層移動した家族があり、呼び方が変わったんで云々、向こうが東京弁なら、こっちは大阪弁だ、という話である。コメディというわけではないのだが。
家族呼称のほか、敬称についても若干触れられている。
「
へんろう宿」というのもある。
これは土佐を訪れた旅人が泊まった宿屋での出来事である。「
へんろう」は「遍路」。なかなかすさまじい、ある意味では幻想的な出来事ではあるのだが、おばあさんの土佐弁が生き生きと描かれている。
他には、「
丹下氏邸」「
遥拝隊長」というのにも方言が使われている。
どれも短編なので、筋をばらさずに説明するのは難しい。是非、読んでみてください。
で、それぞれがどこの地域の方言だか俺に教えてください。
井伏鱒二自身は広島の出身らしいのだが。
個人的には、「
夜ふけと梅の花」がちょっと乱歩っぽいのと、「
休憩時間」の学生達が自分の遠い過去とオーバーラップしてお気に入りである。
『山椒魚』については、「
さかなのポータルサイト」の記事が面白い。「それでは、もうだめなようか」「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」の段落が作者晩年の最終版ではばっさり切られていたとは驚きである。
そう言えば、『カンゾー先生』という映画の原作も井伏鱒二らしい。面白そうだとは思いつつ、つい行きそびれたのであった。そのせいではあるまいが、興行成績は散々だったとか。
今度はこれを探してみよう。
『山椒魚』は岩手にあった。今度は山形辺りに行けば見つかるだろうか。
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