俺の職場では、秋田弁がほとんど使われていない、という話をしたことがある。
が、こないだ、その痕跡を発見した。
アキラという人がいるのだが、彼が呼ばれるときの発音が「
アギラ」なのである。
「
アギラ」と書くと、なんだかカプセル怪獣みたいだが、この「ギ」の発音は難しい。
息が漏れないし、音も弱い。母音は、英語で言うところの shwa である。あの、“e”をひっくり返したような発音記号だ。
これをマスターできたら、あなたも一人前。
大体、濁点のつき方にはルールがあるのか?
長年、ほったらかしにしてきた問題を検討してみることにする。
不本意ながら、標準語形に濁点がつく、というスタンスで考えを進めざるを得ないことを断っておく。
とりあえず例を挙げていこう。山ほどあるから。
今回の話は、できれば秋田衆を横において、発音を確認しながら読んで欲しい。
まず、この辺で、語頭はにごらないのではないか、という推論が可能だ。
「方」は、「俺たち」という意味の「
おれがだ」になると濁る。
書く | かぐ |
慌てる | あわでる |
わかる | わがる |
落ちる | おぢる |
落とす | おどす |
叫ぶ | さがぶ |
運ぶ | はごぶ |
担ぐ | かづぐ |
叩く | ただぐ |
果たす | はだす |
無くす | ねぐす |
返す | かえす |
前半はいいのだが、後半が不思議だ。動詞の活用語尾たる「す」は濁らないのだろうか。
命令形や仮定形でエ段になると、「
はだへ」「
ねぐへば」と「せ」が「
へ」になってしまう、というのは別の現象なんだろうか。
これは濁らない。違いは何か。
先頭が無声音だから、ということだと思われる。
「行きたい」というのは、秋田県内でも地域によって「
いきて」だったり「
いぎで」だったりする。この場合、「
*いきで」や「
*いぎて」が無いこともあわせ、「き」が有声音かどうか、というのが決め手になると考えると、話が符合する。
「尽くす」は「つ」が有声音なので濁る、というわけだ。しかし、「使う」の「つ」が無声で「尽くす」の「つ」が有声になる理由はわからない。
あ、例外を見つけてしまった。「こする」は濁らない…。
月 | つぎ | 次 |
柿・牡蠣 | かぎ | 鍵 |
書く | かぐ | 家具 |
これを比べてみると、あることに気づく。
もともと標準語形が濁っているのは鼻濁音だが、秋田弁では濁っているという語は鼻濁音ではない、ということである。
上の例の「担ぐ−
かづぐ」と「叩く−
ただぐ」も同様。
これなんぞは連濁ではないか。標準語形では発現しない、ということか。
しかし、「不細工」「不摂生」は「ぶさいく」「ふせっせい」のままだ。
大体、漢語は方言形が現われにくいのが普通だ。音だけとはいえ、この語に限って変化するのはなぜだ。
なんてユニークなのもある。
「秋葉原」「山茶花」あたりと一緒か?
前に、“m”と“b”は仲間だ、という話をしたことがある。
「も」に濁点はつかないが「
ぼ」にはなる、ということ。逆もまたしかり。
こんなのもある。
「
みつぱ」。
音自体は普通の「
ぱ」である。
意味は「三つ葉」。春先の野菜も、トランプのカードにも使う。
しかし、植物が芽を出したときの「双葉」は「ふたば」だし、幸運を運ぶのは「よつば」で、「ふたぱ」でも「よつぱ」でもない。「大葉」も「おおば」。尤も、どっちかっつーと「しそ」を使うため、「大葉」は半ば理解語彙だが。
不思議な単語だ。「葉っぱ」からの連想かとも思ったのだが。
以上。ここで息切れ。
解明までの道は遠い。