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Shuno の方言千夜一夜
第193夜
不器用な天使
浅香唯
の話題が続いて恐縮である。本当はあんまり恐縮もしてないが。
この間、ダウンタウンの番組に出ていた。「ダウンタウン DX」は初めて見たのだが、「さんま御殿」との本質的な違いがどこなのか判然としない。ホストの発話量は違うかもしれないが。
幼い頃の写真が紹介されていた。右側に母親、左側に兄という構図で、それを説明しようとして「
右っかしが…左っかしが…
」と発話し、浜田につっこまれていた。
この人、昔っから宮崎弁の特徴がちょくちょく出る人で、さすがに「
よだきい
」が口をついて出たのを聞いた記憶はないが、アクセントやイントネーションについては今でも混乱があるようである。
事務所の方でも、特にそれを隠そうという方針ではなかったようで、宮崎弁を使っての失敗談などもあちこちで紹介されていた。親しみを持たせるための戦術だったのだろう。「
スケバン刑事
」で一年半に渡って宮崎弁を披露しまくり、しかもこれが出世作だから、大半の人にとっては浅香唯 = 宮崎弁という式が成立してしまっており、何を今更、という判断もあったと思われる。
「
右っかし・左っかし
」について言えば、「右側・左側」が標準形であるにしても、「右っかわ・左っかわ」はよく聞くし、「
右っかた・左っかた
」も割と多い。これも、元はどこかの (東京西部?) 方言形だろうが、若い人の口から聞くことも少なくない。
意味は同じだし、形も似ている。「
右っかし
」が口をついて出るのは決して不自然ではない…と思う。
本人のたまわく「標準語だと思ってた」ということだが、これがボケだったのか、本当にそうだと思っていたのかは不明。前者だと思うが。
芸能人の方言使用には営業上の戦術や戦略が絡んでくる。結局のところ、方言もまた販促ツールの一つ、ということである。田舎者であることがマイナスになるのであれば表に出さないようにするだろうし、飾らない性格を前面に押し出すために積極的に発話させることもあるだろう。
実は似たような判断を芸能人以外の人もやっている。
文字にしろ音声にしろ、共通語はメディアを通じて大量に入ってくる。方言話者は、共通語を使うと様々な面でトクだということを知っている。そのため、方言から共通語への
スイッチング
が非常に軽やかに行われることがわかっている。この場での公開がペンディングになっている俺の卒論でもその傾向が見られたし、最近の調査では更に鮮明になってきている。
*1
つまり、愛着などのような情的な判断を、
それはそれとして
、と脇に置いている風なのである。
笑われたことがあったので使わなくなった、というケースは、実はそれほど多くない。そもそも使ってないから、である。
方言を愛する人には「情けなや」と思われるかもしれないが、実際問題として方言はよその地域では通じない。なまじ価値判断が介在すると本人が苦しむことになるから、これはある意味では望ましいことであるのかもしれない。
本来の通用範囲を出た場所で使われる方言には二種類ある。
意識して使われるものと、つい出てしまうものである。
後者はわかる。俺自身の経験でも、共通語では一語で表現できない言葉、共通語と同形で意味が違う言葉などはそのまま使われることが多いし、イントネーションやアクセントは変更が難しい。
だが、意識して使いつづけるのは何故か。やろうとしたことがあるのだが、区域外で自分の方言を使いつづけるにはかなりのエネルギーを要する。そのエネルギーがどこから来るのか不思議であった。
この典型と考えられているのが大阪で、愛着の強さ、自信の現れなどで説明されることが多い。しかし、井上史雄氏の文章で、大阪の人は大阪弁を真似られたときに拒否反応を示すことが多い、というのを読んで、ハッと思った。
確かにその通りである。彼らが場所を問わず大阪弁を使いつづけ、他者が大阪弁習得中に犯すミスも認めないのは、
閉鎖性の裏返し
なのではないか。
*2
個人的には「出てしまう」方言は大事にしたいと思う。それは人となりを理解するのに役立ち、潤滑油としても機能する。
が、「標準語」も含め、押し付ける方言は勘弁願いたい。愛着なら愛着で尊重するが、人に内容が伝わっていない、ということには注意を払って欲しい、と思う。
スケバン刑事の LD 情報は、引き続き募集中である。
*1
佐藤和之・米田正人編著『どうなる日本のことば (ドルフィンブックス、ISBN4-469-21244-X)』
(
↑
)
*2
井上史雄「ことばを正す」(『日本語学』、1999/12)
(
↑
)
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