Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第183夜

ふるさと日本のことば (3) −愛媛、愛知、北海道−



愛媛編−見ておくれんかなもし(5/7)−

 愛媛は、東予 (新居浜)・中予 (高松)・南予 (宇和島) と別れる。
 早速「坊っちゃん」をとりあげ、「〜なもし」があまり使われなくなっていること、謙譲の意味を担っていた本来の使い方は絶滅寸前であることに触れる。まぁ、しょうがあるまい。敬意の低下はどこにでもみられることだ。無関係とは言わないまでも、方言の衰退云々とは次元が違う。

 面白いのは、「いんでこうわい」。
 これは「往んで来るわい」が元らしく、文字通りに解釈すれば、一旦は帰るがまた来るよ、ということだが、これは別れの言葉である。待ってても相手は帰ってこない。実際、そういう勘違いをして待ちぼうけを食らったエピソードが紹介されていた。
 何度も触れたが、日本語の別れの言葉は「それじゃね」で成り立っていることが多い。この点からはかなりユニークと言えるが、「じゃぁまたね」と「往んで来るわい」には、再会が念頭にあるという辺りで接点がある。これは天野祐吉の指摘である。

 どっかにあるだろう、と思っていたのだがやっぱりあった、「られない」による禁止。だいぶ前に取り上げたが、秋田弁にあるのだ。
 「れる・られる」には可能の意味があるが、それを否定することによって、不可能だけでなく、禁止の意味をもたせることも可能だ。英語の“can't”を思い出してみればよい。
 番組中では、「まがられんよ」というのを取り上げていた。「まがる」自体は「触る」で、「まがられんよ」全体としては「触るなよ!」という意味になる。参考に言うと、秋田弁では音便化して「触らいねよ」となる。秋田の場合、個人の意向による禁止ではなく、そういうルールがある、という含みを持つのだが。

 「ありがとう」という意味の「だんだん」は山陰でも使われる。これがなぜ「ありがとう」なのかわからなかったのだが、「段々」は「重ね重ね」という意味であるらしい。「重ね重ねありがとうございます」の後半が脱落したものだという

 自分の方言は早口だと思うか、というアンケートを取ると、東予と南予は相当、後ろに来るらしい。これを、豊かな自然と結びつけて、穏やかな気分になりますよね、とか言っていたが、古く、瀬戸内〜山陽は、都と最前線である九州とを結ぶ大幹線であった筈。日本にはあまりない水軍すら成立した地域だ。それを、穏やか、と言ってしまっていいのか?

コラムニスト 天野 佑吉
愛媛大学 清水 史
愛媛放送局 辻 智太郎


愛知編−見てちょーよ(5/14)−

 このシリーズには、各地の NHK の放送局から一人づつ出演しているが、やっと地元出身のアナウンサーが出た。やはりこうでなくては微妙なところが伝わらない。NHK 自体の機構の問題だから、今後どれだけ出てくることやら。
 現在の秋田放送局にも秋田出身のアナウンサーはいなかったはず。民放でも少ない。

 名古屋人は、にゃぁにゃぁ言ってネコみたいだ、という風評がある (らしい)。これに対して「にゃぁではない」と言おうとすると、「にゃぁじゃねぁ」となるのだそうだ。
 方言と文字の関係はかくも難しい。
 しかし、これで思ったのだが、仮名はかつての標準語であった京都の言葉をあらわすための文字であったはずだ。これが、現在の標準語である東京弁をきちんと書き表せるのは何故だ。まぁ、仮名の歴史を調べればわかることだと思う。俺が不精しているだけだ。

 ご存知の通り、愛知県は西が尾張(名古屋)、東が三河(岡崎)である。信長と秀吉が尾張、家康が三河。
 これは石坂啓の発言だが、名古屋は昔から大都市だったから、名古屋だけで成り立っていた。確かにそうかもしれない。名古屋は大阪や東京に対する対抗意識が強いというイメージもあるが、これは名古屋が自律していたことの裏返しだろう。

 三河の料理店に名古屋の住人がやってきて女将と会話しているシーンが取り上げられていた。その客が「中村の在から来た」と言っていた。名古屋市中村区のことだろうが、「在」なのか?
 尾張の料理店では「なも」が使われていた。これ、語尾だとばっかり思っていたが、単独でも使われるようだ。相手の発言に対する相槌として使われていた。

 大須の商店街にある茶店の主人が「お値打ち」を説明していわく「単に安いということでなく、店が選んだ上等な品をこの値段で提供しているんだ、というフィロソフィ」。そうか、「フィロソフィ」なのか。

 全体として、愛郷心丸出しである。
 別にそれが悪いとは言わないが、ここまでの放送分の中では最も気持ちが入りにくい回であった。思うに、客観的な発言をしてくれる人がいなかったためではないか。やはり、学者はいて欲しい。
 全員が愛知県出身者・関係者で「この言葉ではなくては気持ちが伝わらない」とやられたのでは、部外者が感想を持つことすらためらわれる。

漫画家 石坂 啓
愛知のことば研究家 服部 勇次
名古屋放送局 若林 則康

北海道−見たらいいんでないかい(5/21)−

 途中で、ダルマストーブが登場する。
 寒さを強調しているわけだが、氷室 冴子が使い方を説明する中で「デレッキ*」「あぐ (灰)」「あぐなげ (灰を捨てる作業)」など、非常に特徴的な語が多数、登場するも、説明なし。まぁ、見てりゃわかると思うが。
 それにしても多数の俚言が登場した。「〜っしょ」「しばれる」があたりは既に全国区だが、「あずる (てこずる)」「がおる (疲れ果てる)」「雪をよせる、はく、きる…(除雪する)」など盛りだくさんである。単純にうれしい。

 鶴居村のおばあさんが、観光客に「バスの中でねまって (座って) きたの?」と問い掛けていた。一方、観光客から、「(雪で) こけちゃう」と言われ理解できないようであった。
 しかし、こんなものは説明されればわかる話だ。こういうずれを楽しみたいものである。

 進行役の国井アナウンサーが「いが (イカ)」などを真似ていたが、どうしても鼻濁音になってしまっていた。この人、旭川放送局に勤務していたらしいのだが、聞き分けられないのだろうか。それも考えにくいから、進行上わざと、という方が可能性が高いか。

 「なまら (強調の副詞)」が新方言だとは知らなかった。
 「『なまら 格好いい』って言われても格好よくないよねぇ」という発言があったが、大きなお世話である。ただし、「格好よい」という評価軸は、東京 (=標準) と密接に結びついているから、当は得ている。

 江刺の言葉、「ヤマセ来れば、鍋さ入った魚も逃げる」というのが印象深い。歴史を感じさせる。
 ここで「おおきに」が出てきたのも楽しかった。なにせ「じゃんぼ (津軽などで言う、頭)」と並んで使われるのである。
 にも書いたが、北海道弁自体が、全国から集まった来た開拓者同士の意思疎通を担った、一種の広域共通語なのである、ということを如実に示す例であった。

 アイヌ語への言及が、「シシャモ」「ルイベ」位で、ほとんど無かったのはどうか、と思う。

作家 氷室 冴子
北海道方言研究会 小野 米一
札幌放送局 和田 成弘



*:ダルマストーブの蓋を開けたり、灰を掻き出したりするために使用する、先の曲がった金属の棒。“the rake”の変化とか、オランダ語の“dreg (→英語の drag)”からの変化とか諸説ある。()



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