「歴史」とは何か

各国別々でなく、共有されるもの

入江 昭 ハーバード大教授

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  「歴史は民族によって、それぞれ異なって当然かもしれない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではないのかもしれない」これは「新しい歴史教科書をつくる会」主導の中学校用歴史教科書で、今年3月に文科省の検定をパスしたものの序章にでてくる言葉である。歴史は民族や国家が作るものだ、という見方には問題があろう。民族とか、国とかの単位に入らない集団、例えは家族とか村落、都市など、あるいは女性、子供、高齢者等の歴史もあるわけだし、国という枠組みを越えた現象、例えば宗教の発達とか世界経済の発展とかも、当然歴史の一部である。
 しかし仮に民族や国を中心とした歴史というものに限って考えた場合、「国の数だけ歴史がある」ということは、何を意味するのか。今、世界には約200の独立国家があり、それ以上の民族(言語や宗教を共有する集団)が存在している。その各々が自分たちの歴史を持っているのは確かである。しかし、それは、各自の歴史が別個なものだということにはならない。民族同士、国家同士が互いに交渉しあい、からみ合いながら作ってきた歴史もある。事実、人類の歴史の大半は、そのようなからみ合いによって作られてきたものだともいえる。このからみ合いを学ぶのも、歴史教育の重要な目標であろう。
 したがって、国や民族を単位とした歴史を考える場合にも、それは決してそれぞれの歴史を孤立したものとして、他の国や民族と切り離して考えるということではない。自国史の中には当然他国史も含まれるのである。他の国とどのような関わり合いを持ってきたのかを調べることは、もちろん重要であるが、同時に、他の国が自分の国をどうとらえ、どのように理解しているかを認識するのも、歴史研究上、欠かせない視野だといえる。
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 一つ例をあげる。今年は太平洋戦争開戦以来60年になるので、日本でも米国でもこの戦争の起源、あるいはその性格について多くの議論がなされている。アメリカでは真珠湾攻撃をテーマにしたハリウッド映画「パールハーバー」が封切られたが、エミリー・ローゼンバーグ教授(マカリスター大学)によれば、最近パールハーバーが一種の「メディア・ブーム」にすらなっているという。そのようなものを通してアメリカ人が日米戦争を理解しているのだとしたら、日本海軍による奇襲だけに焦点があてられ、そのために戦争になったのだ、という単純な歴史解釈しか生じないであろう。真珠湾攻撃の背後にあったものは何なのか。そもそも日本をして、米国という世界一の大国に戦いを挑ませたのは何だったのか。
 このような問題を考えるためには、当然のことながら日本のみ、あるいは米国のみに焦点を当てるだけでは不十分である。1941年の日米衝突に至る両国間の関係がどのようになっていたのかを考慮しなければならない。
 それについての米国の代表的な見方は、中学・高校で使われる歴史の教科書にうかがうことができる。多くの教科書では、日本が31年以来大陸に進出していったこと、そして米国がこれに抵抗し、中国を支持するようになったことが、日米衝突の根本的な原因である、とされているようである。なぜ日本による中国支配を米国が反対したのかについては、例えばある高校用教科書では、日米間には国際「システム」について根本的対立があった、と述べられている。日本の排他的ブロック主義と米国の「自由主義的資本主義体制」、日本の覇権主義と米国の人権尊重、日本の全体主義と米国の民主主義などが正反対のものであり、どちらか一方が譲歩するまで、和解はあり得なかった、というのである。したがって、最終的に米国が日本に中国からの全面的撤退を迫ったのも当然で、これに対して日本がその要求を拒否した結果戦争になったのだ、というのがアメリカにおける典型的な見方だといえよう。
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 そういった見方には問題点も少なくない。もしも米国が門戸開放とか人権とかを掲げて、日本の大陸進出に反対していたのならは、何故もっっと早くから、例えば満州事変勃発当時から、日本の中国撤退を主張しなかったのか、というのが一つ。主義上は日本との根本的対立を意識しながら、何故41年11月という時点においてすら、米国は日本と外交交渉をして戦争を回避しようとしたのか、という問題もある。その他詳細なことを言えばきりがないが、要するに米国から見た日米開戦のイメージに、歴史的背景の考慮が不十分であることは指摘されてよい。
 日本の側はどうか。最近問題になっている「新しい歴史教科書をつくる会」主導の教科書でも、日本による中国進出が米国との関係悪化をもたらしたことが強調されている。米国による日本への中国撤退要求が日本政府の対米開戦を決意させた、という記述はアメリカの教科書と同じ内容であり、その点では両者の歴史理解にギャップはない。しかし、米国の教科書に比べ物足りなく思われるのは、その背景について、米国の教科書にあるような説明もなく、何故日本は中国を侵略したのか、何故米国との戦争までもして、中国支配を続けることが重要だとされたのか、などについての記述もないことである。米国の教科書以上に、自国中心的な傾向がある。
 戦争に限らず、平時においても、各民族、各国民は世界に共生し、同じ時間を共有するものである。その事実を把握し、お互いがお互いの運命とどう関わり合っているのかを探る。それが歴史を学ぶ根本的な目標ではなかろうか。そうだとすれば、歴史というものは決して各国別個のものではなく、世界中すべての人々に共有されるものだ、ということになる。

 いりえ・あきら 34年、東京生まれ。ハーバード大大学院修了。シカゴ大教授などを経て89年から現職。国際関係史、アメリカ外交史が専門で、研究は国際的に知られ、日本人として初めてアメリカ外交史学会、アメリカ歴史学会の会長も務めた。著書は『二十世紀の戦争と平和』など多数。吉野作造賞なども受賞。
  [出典 朝日新聞2001.6.6 思潮21]

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[Last updated 6/30/2001]