全慶寺

山王3-22-16

 日蓮宗、山号は法光山、義民六人衆の寺とよばれる。旧本寺は品川の本光寺で、もと顕本法華宗(けんぽんほっけしゆう)に属していたが、昭和16年の三派合同で日蓮宗になった。
 『新編武蔵風土記稿』には、当所の人、増田三郎右衛門が、日蓮の直弟(じきてい)、和泉阿砂闍梨(いずみあじゃり)日法に帰依(きえ)し、正応四年(1291)に建立した古刹(こさつ)であると伝える。また、そののち、11世日量(大永元年没)の代までは、身延山(みのぶさん)久遠寺(くおんじ)の末寺であったが、12世日好が日什門流に属したため、以来顕本法華宗になったともいう。

<義民六人衆の墓>
 当寺の境内(けいだい)墓地にあり、都の旧跡に指定されている。
 義民六人衆の越訴(おっそ)事件の発端は、延宝元年(1673)の旱魃(かんばつ)、翌二年の多摩川の氾濫(はんらん)による洪水などで農民は著しく疲弊(ひへい)し、領主木原氏に年貢の減免を願い出たが、拒否されたことによる。
 延宝四年(1676)、苛酷(かこく)を極める領主の年貢収奪に絶えかねた新井宿村の農民は、やむをえず、村役人である名主(なぬし)酒井権左衛門、年寄鈴木大炊之助、同平林十郎左衛門、同間宮太郎兵衛、同酒井善四郎、百姓代間宮新五郎の六人で幕府に直訴することを決めた。
 翌年の正月、越訴の目的で江戸に出たが、事前に領主の察知するところとなり、捕えられて全員斬首の刑に処せられた。しかし、その結果、この年から年貢は半減されたので、彼等の行為は村民たちから義民的敬仰をうけ、高く評価され、語りつがれた。
 延宝7年(1679)に、村民間宮藤八郎は、父母の墓を建てるという名目で、墓石の正面に父母の法号を、ほかの三面に六人の法号を刻んで、ひそかに彼等の墓を建立した。これが現在の墓石である。
 この墓石は、四方に水入れがつけられており、それが全部小穴で通じ、いっぽうに水を注ぐと四方にゆきわたるように工夫され、農民の涙ぐましい追慕の至心がしのばれて、万感胸にせまる。
 なお、近年寺域整備のため、もと池上通りに面した参道入口の左側にあった墓地が、現在の所に改葬された。その折の発掘で、墓石の下から6人の遺骨を収容したものと思われる大瓶(おおがめ)が発見され、いまは本堂内に遺骸引取のときに使役した馬の飼葉桶(かいばおけ)などとともに、展示、保存されている。

<新井宿村名主惣百姓等訴状写>
 この越訴事件の全貌を記す唯一の史料であり、しかも事件後間もなく筆写されたと考えられる貴重なもので、都の有形文化財に指定されている。
 この事件は、村民の言い伝えや、前掲の墓石の存在などで知られてはいたが、明治34年(1901)に、六人衆の子孫といわれる間宮家の戸袋から本帳が発見され、はじめて事件の経緯が明らかになった。
(出典 大田区史跡散歩 新倉善之著 学生社 1992年 東京史跡ガイド11)

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[Last updated 11/30/2006]