本の紹介 「白川静」
漢字の世界観

  目 次

1. 本との出会い      
2. 本の概要
3. 本の目次
4. 本の内容
5. 著者紹介
6. あとがき
7. 読後感


松岡正剛著

平凡社新書

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1. 本との出会い
 私の高校時代の友人S君からの今年(2010年)の年賀状で、彼が老人ホームに入ったことを知りました。4月お見舞いに行ったとき、読みたい本を尋ねたら白川静さんの本だといわれました。早速、本屋に行ったところ、今年は白川さんの生誕百年とのことで、総括的なものとして3册の本が並んでいました。そのうち一番良いと思ったのがこの本です。他の2册は数人の方が書いているのに対して、この本は一人の著者が書いており、読んでから知ったのですが、白川さんを紹介する適任者だと思いました。たまたま「本の紹介」に「漢字百話」を取り上げていたので、「私の愛読書」に移して、載せました。後でも触れる予定ですが、今後も白川さんの本を読むことが増えそうなので、別の目次に移しました。

2.本の概要(本のカバーより)
 白川静は、甲骨文、金文など漢字の始原を訪ね、「文字は神であった」という斬新な視点に基づき、『字統』『字訓』『字通』を初めとした多くの本を著した。その研究により文化功労者に選ばれ、文化勲章を受章している。
 だが膨大な著書の故もあり、その全体像は把握しにくいものだった。博覧強記の著者が巨知#註静に挑み、その見取り図を示した初の入門書。

3. 本の目次
第一章 文字が世界を憶(おぼ)えている………… 7
  白川静と漢字の世界観/『漢字』の衝撃/漢字には原初の祈念や欲望がある/"漢字の体系"とは/白川静の生い立ち/「漢字」と「東洋」へのめざめ/「文字を写しながら考える」

第二章 呪能(じゅのう)をもつ漢字………33
  文字本来の「力」/文字には呪能(じゅのう)がある/甲骨文の誕生/甲骨文は神聖な王のためのもの/「D(サイ フォント[活字]が無いのでDで代用したが、Dの上下の水平線を左に少し伸ばして、時計方向に90度廻[右回転]したもの)とは言霊(ことだま)の入れもの/D(サイ)から広がる漢字群/漢字研究は言語の本質との闘い/古代社会での言霊の攻防

第三章 古代中国を呼吸する…………69
  古代は神話とともにはじまる/洪水神話と古代の王たち/古代中国の歴史/金文の世界/
  東洋学としての白川学/漢字のマトリックス/「文字講話」で訴えたもの

第四章 古代歌謡と興(きょう)の方法…… 107
  白川論文の独創性/研究の深化と蓄積/故郷の先人・橋本左内(さない)と橘曙覧(あけみ)/歌を詠むために「思いを興(おこ)す」/古代歌謡は何によって生まれたのか/「興(きょう)」という方法/『詩経』の民俗学的解釈

第五章 巫祝王(ふしゅくおう)のための民俗学……139
  民俗学の開花/『万葉集』と『詩経』をつなぐもの/草摘みと水占(みなうら)の事例/雄略天皇の歌の真意/
  人麻呂「安騎野(あきの)の冬猟歌」の大胆な解読/神との交感を基とする/
  巫祝王(ふしゅくおう)の時代はいつまでつづいたのか/春秋から戦国へ

第六章 狂字から遊字におよぶ……179
  新しい孔子像/「巻懐(けんかい)」という方法/孔子と「狂」の関係/「狂」の二面性/「遊ぶものは神である」/
  字書の哲学/辞典編纂者(レキシコグラファー)の歴史/字書三部作

第七章 漢字という国語…………211
  漢字の原理/「漢字は日本の国字である」/日本人の感覚で漢字をつかいこなす/万葉仮名の発明/
  和漢混淆−−日本人のデュアル・スタンダード/日本の文字革命=仮名/共鳴しつづける漢字の世界

本書で引用した白川静の文献一覧……… 247
白川静略年譜…………251

あとがき−−豆腐とニガリ………255

注: 本書は新漢字を原則として使用した。引用の仮名遣いは原文によるが、引用中のルビはすべて新仮名とした。白川静の年齢は満年齢で表記した(1910年4月生まれ)。引用は同じ著書が『白川静著作集』に収録されている場合は、それを用いた。甲骨文、金文等の古代文字は『字通』(1996年、小社刊)より転載した。文字に付した印は、◎(中は黒丸)印=甲骨文、◎印=金文、無印=テン文を示す。「文献一覧」「略年譜」は編集部で作成した。

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4. 本の内容
第一章 文字が世界を憶(おぼ)えている………… 7
白川静と漢字の世界観
 白川静がどのように「漢字の世界」を解読し、制覇し、独自に再構築していったか。
『漢字』の衝撃
 白川さんが60歳のとき、初めて岩波新書の『漢字』を上梓し、アジアを代表するアーティストの間で、話題になった。
漢字には原初の祈念や欲望がある
 漢字には文字が生まれる以前の悠遠なことばの時代の記憶がある。漢字は体系的原理を持っているはずだ。
"漢字の体系"とは
 後漢の許慎(きょしん)は『説文解字(せつもんかいじ)』で当時確認できた漢字9353字を対象に、漢字は六つの構成法(六書[りくしょ]の法)「象形・指示・会意・形声・仮借・転注」によって成立しているとした。
 甲骨文字は1899年に発見された。
白川静の生い立ち
 白川さんは1910年、福井市で生まれた。大阪での丁稚奉公の住み込み先は代議士広瀬徳蔵の事務所で、所有していた漢籍を読みふけった。
「漢字」と「東洋」へのめざめ
 少年は「漢字」と「東洋」が無性に好きになった。18歳のとき、中学校教師になって、生涯にわたって読書をしつづけようと決意した。学費を準備し、立命館大学国漢学科に行って教員資格をとった。その頃、段玉栽(だんぎょくさい)の『説文解字注』や呉大澂の『字説(金文の読解)』に出会った。
「文字を写しながら考える」
 1935年、立命館中学校に赴任する。白川さんの学習法「筆写とトレース」が確立した。
 立命館大学の漢文学科に入学。

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第二章 呪能(じゅのう)をもつ漢字………33
文字本来の「力」
 言葉や文字の本来の力。本来の文字は当時の社会の言葉を喚起させ、意味を再生させ、世界を実感させる最初の「力」を持っている。白川さんが生涯を通して研究したことは、この「力」とはいったい何であったかである。
文字には呪能(じゅのう)がある
 人間社会のオラル・コミュニケーションからリテラル(読み書き)・コミュニケーションにおよんだ言葉と文字にかんする多くの変遷の現象を、時間をさかのぼって逆にたどってゆく方法。突きとめたいのは、日本を含んだ東洋古代の世界観。文字がもつ本来の「力」を呪能とよんだ。その呪能により文字がつくられたと想定した。人間が文字にこめた原初のはたらき。文字が実際にもたらす意味の効能や作用。
甲骨文の誕生
 甲骨文は亀の甲羅や牛や鹿の獣骨に刻んだ線状文(せんじょうもん)のこと。貞卜(ていぼく)を刻んだ。何かを「貞(と)う」て、「卜(うらな)う」。
 貞卜では、甲骨の裏側に熱を加え、縦横に入るひび割れにより、問題を占う。それが「貞辞」で、これを甲骨面に文章として刻印した「刻辞」が本来の文字の始原であって、原初の呪能文字である。現在、収集記録されている甲骨文は約5千種。
甲骨文は神聖な王のためのもの
「D(サイ)」とは言霊(ことだまの入れもの
 古代文字は、文字であって、言語そのもの。言語の言という字の下の四角は口ではなくD(さい)で、その上に入れ墨用の針がついている。D(さい)は祝詞(のりと)や呪文のような大切な言葉、つまり言霊(ことだま)を入れておく容器。白川さんが漢字研究のごく初期に独自に発見した。許慎の『説文解字』での説明を塗り替えた。
D(サイ)から広がる漢字群
 言語の語は言偏に吾で、D(サイ)の上に五を載せたもの。五は木を交叉させた蓋で、紐などを強く結いつけて二重蓋にしてある。言霊を入れた容器をしっかり上から蓋を押し付けた姿。言と語は神と人の間のコミュニケーションの姿をあらわしている。このような言語文字力の呪能の基体をあらわす核心的なものを、かりに「漢字マザー」と名付ける。
漢字研究は言語の本質との闘い
 文字のひとつずつを解明するだけでなく、文字がそのような形や音という根拠をもたざるをえなかった古代社会の祈りや恐怖や期待を解明することと、文字それぞれがことごとく不即不離になっている。
古代社会での言霊の攻防
 言語とは、その初期においてはまさに言霊の攻防であった。したがって、その言語によって人を呪詛(じゅそ)することも、神と交感することも、また政治的な決定をすることも可能であった。また言語の呪能を破る呪能もあった。舎がその例。

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第三章 古代中国を呼吸する…………69
古代は神話とともにはじまる
 古代は神話とともにはじまっている。古代中国では記録の方法が甲骨文・金文の早期出現でいちじるしく発達していた。中国では文字が神話をつくった。神話が歴史として体系化されなかった。広大な中国のなかには、いろいろな特色と言語と風俗が乱立している(P.71図1・2)。文字の体系の発生には絶対的な権力をもつ王が必要である。
洪水神話と古代の王たち
 古代中国の王たちは、治水が最大のまつりごとだった。白川さんの「古代中国の文化」と「古代中国の民俗」に詳しい。白川さんは漢字を研究したかったのではなく、東洋を解明したかった。
古代中国の歴史
 中国大陸に温暖化がおとずれ、旧石器時代から新石器時代になっていったのが約1万年前、山間の洞穴から平野への移住がはじまり、定住生活が目立ってき、紀元前5千年前後に農耕生活、家畜の飼育、土器制作がおこって、黄河と長江の流域で2大農耕地帯が形成された。母系社会で、プリミティブな占卜の先行形態があらわれていた。黄河流域や土器に「記号」や「図標」が見られるようになり、原始文字や文字記号が登場してくる。紀元前4千5百年前後と思われる。4千年前頃からは父系社会への移行がおこる。
 紀元前千6百年頃、殷王朝がはじまり、第21代の武丁の時代に甲骨文を編み出す。
金文の世界
 殷王朝のあと周(西周)の時代に移り、青銅器が盛んにつくられる。主として祭器で、器はD(サイ)を列ねてその間に犬牲をおく形である(P.86図4の写真)。金文とは青銅器に鋳造された文字のことである。形声字がふえたことと、書体が柔らかに変化した。
東洋学としての白川学
 夏・殷・周は白川さんにとっての神聖王朝であり、祭祀共同体であって、言語文字照応社会であった。そのように古代中国にかかわっていくことが、白川静の東洋学だった。東洋の精神を究めようとして文字に取り組んできた。
漢字のマトリックス
 東洋文庫「漢字の世界」の章立て。
(1) 文字原始 日ほか、(2) 融即の原理 左ほか、(3) 神話と背景 東ほか、(4) 異神の怖れ 方ほか、(5) 戦争について 聖ほか、(6) 原始宗教 尤ほか、(7) 言霊の信仰 言ほか、(8) 原始法の問題 善ほか、(9) 聖地と祀所 降ほか、(10) 生産と技術 図ほか、(11) 世にありて 父ほか、(12) 生命の思想 玉ほか 世界が開示され、それが東洋の思想そのものである。
「文字講話」で訴えたもの
 白川さんは最晩年の89歳から亡くなる直前の数年間、文字文化研究所の所長として「文字講話」を公開講義された。そのプログラムは20章にわたっている。
(1) 文字以前、(2) 人体に関する文字、(3) 身分と職掌、 (4) 数について、(5) 自然と神話、(6) 原始の宗教、 (7) 祭祀について、(8) 国家と社会、 (9)  原始法について、(10)  戦争について、(11) 都邑と道路、(12) 生活と医術、(13) 歌謡と舞楽、(14) 人の一生、(15) 思想について、(16) 感覚について、(17) 載書字説、(18) 文字の構造法、(19) 声系について、(20) 漢字の将来

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第四章 古代歌謡と興(きょう)の方法…… 107
白川論文の独創性
 白川さんは処女論文「卜辞の本質」次の論文「訓詁における思惟の形式について」「殷の社会」などで学界の先輩と対立する。また、許慎の「説文解字」と異なる解釈も通用しなかった。他方、研究誌「説林(ぜいりん)」の発行や日本甲骨学界の結成と、機関誌「甲骨学」の刊行など発表の場は増えていった。
研究の深化と蓄積
 約2万片におよぶ卜辞をノートに写しとり、大判の文字は別途トレースした。
 「釈史(しゃくし)」と「釈文(しゃくぶん)」の2編が『甲骨金文学論叢』初集を飾った。
 「釈史」の史はD(サイ)を木に捧げて神に祝祭している。
 「釈文」文は入れ墨。
 長女に史(ふみ)という名前をつけた(津崎史)。
 『甲骨金文学論叢』第4集に「載書(さいしょ)関係字説」を載せた。説文解字に対する攻撃。
 阪神間の有志の集まりである樸社(ぼくしゃ)の活動。「白鶴美術館誌」に金文についての講義案。説文解字の講義は、『金文通釈』56輯と『説文新義』16巻に収録した。
 白川さんの漢字世界観が、岩波新書『漢字』として世間一般に公開された。
故郷の先人・橋本左内(さない)と橘曙覧(あけみ)
 福井出身の二人の先人、橋本左内(東洋)と橘曙覧(万葉)。『詩経』と『万葉』とを同時に読む。古代中国と古代日本の社会・民俗・精神を同時に実感する。興(きょう)を体に染みこませる。
歌を詠むために「思いを興(おこ)す」
 もともと『詩経』と『万葉』は古代歌謡なので、そこには何か、歌を詠むために「思いを興す」という動機のようなもの、発想のようなものがそれなりに共有されていたはずで、それを「興」という。「興」とは発想の手段のことである。この「興」こそが日中両国の古代に共通しているのではないかと考えた。詩歌や歌謡では、詠ってみようと感じた「そのこと」「そのおもい」を詠むために、まず歌い手や詠み手が何かを思いおこすことがおこる。そのとき先行するイメージや言葉の動きの初動が「興」である。
 『詩経』は、紀元前9世紀から8世紀あたりに詠われていた中国古代歌謡の集成、興の字は地霊をよびおこす意味である。1959年に書かれ、翌年、『稿本詩経研究』別冊として謄写版で刊行された『興の研究』がたくさんの事例を引いた長い博士論文として生まれた。
古代歌謡は何によって生まれたのか
 中国の神話は非体系的だった。神話に代わるものとして祭祀に注目した。次に習俗で、もう一つが歌謡である。中国の歌謡は『詩経』としてまとまっている。それを調べるとき興に着目した。どのように起興していったかを調べると、かなり呪的な方法で歌を詠んでいたことが見えてきた。
「興(きょう)」という方法
 古代歌謡にはもともと呪能があった。かっての古代歌謡がさかんであった呪能に富んだ氏族社会の歌の詠みかたを、あたかも再生するかのように「興」という発想術や編集術が使われていた。民俗学的な解釈を加えることによって理解できる。
『詩経』の民俗学的解釈
 「そのころ、人びとはなお自由に神と交通することができた。神と人とが交感できていた時期は、説明を介さずともその言霊が暗に示すであろう内容にあたることを、それなりに実感できていた。
 『詩経』の「揚之水(ようしすい たばしる水)」という歌謡。
 揚(あが)れる水 束薪(そくしん)を流さず
 彼(か)の子や 我と甲(しん)を戌(まも)らず
 懐(おも)ふかな懐ふかな 曷(いず)れの月にか われ還歸せむや
 激流する水に束ねた柴(薪)を投げ入れたのだけど、どうも流れてくれない。自分が家に残した妻はどうしているのだろうか。なんとも家に帰りたいものだ。
 「揚れる水」が起興。水占い。

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第五章 巫祝王(ふしゅくおう)のための民俗学……139
民俗学の開花
 日本の民俗学は1893(明治26)年、土俗学会設立を嚆矢とする。民俗学とは、「文化の伝承のありかた」を問う。白川さんは甲骨文・金文・漢字の解析を武器に、日本の民俗学的方法を積極的に加えるように導入していった。白川さんの中国古代歌謡研究が、古代万葉研究とぴったり重なって行った。
『万葉集』と『詩経』をつなぐもの
 『初期万葉論』『後期万葉論』をあらわした。興によって『万葉集』と『詩経』がつながりうると判断した。
草摘みと水占(みなうら)の事例
 草摘みの歌 『万葉集』と『詩経』の双方にある。前章最後の「揚れる水」、水占いの歌。
雄略天皇の歌の真意
 雄略天皇の草摘みの歌
 万葉集巻1の劈頭の歌
籠(こ)もよ み籠もち 掘串(ふぐし)もよ み掘串もち
この岳(おか)に 菜摘ます児 家聞かな 名告(の)らさね
そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて
われこそませ われこそは 告らめ 家をも名をも
 単なる問答歌ではなく、予祝の象徴行為。
人麻呂「安騎野(あきの)の冬猟歌」の大胆な解読(初期万葉論)
 「安騎野(あきの)の冬猟歌」は柿本朝臣人麻呂の「軽皇子(かるのみこ)安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」と題する長歌1首と、つづく4首の短歌(反歌)の構成。詠んだ時期はおそらく持統7年(693)で軽皇子は11歳の少年(のちの文武天皇)。
 魂振りであり、魂鎮め。軽皇子の祖母、持統女帝によって深謀考慮された計画。天皇霊の継承と受霊。軽皇子を立太子(皇太子)として確立するために持統女帝がしくんだ。
 反歌 東の野に炎(かげろい)の 立つ見えて かえり見すれば月かたぶきぬ
 特定の1日(冬至)、場所も選ばれた。
神との交感を基とする
 「中国古代の民俗の基本にある観念」を端的にあらわしている言葉は「招魂続魄(ぞくはく)」だろう。日本の「魂振り」「魂鎮め」に相当する。白川さんが考えていた民俗とは、その根底に「巫の伝統」が生きているもの。
巫祝王(ふしゅくおう)の時代はいつまでつづいたのか
 西周まで。日本ではフルコト(古語または古事)の伝承があやしくなった。『詩経』と『万葉集』が類同しているのは、二つともに古代社会が崩壊した過程を共有していたから。
春秋から戦国へ
 秦の始皇帝の時代になり、古代文字文化は消滅する。

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第六章 狂字から遊字におよぶ……179
新しい孔子像
 『孔子伝』が唯一の人物評伝。白川さんが『孔子伝』を書いた5つの動機。
第1 孔子の母親は巫女(シャーマン)。
第2 孔子は「仁」を掲げる理想主義者だが、理想は周公におかれていた。
第3 孔子の政治的失敗が聖者として輝きえた根拠。
孔子はその本質において失敗者であって、かつ亡命者であった。
「巻懐(けんかい)」という方法
 第4の理由として、孔子に「巻懐」の方法を見た。
孔子と「狂」の関係
 第5の理由として、「狂簡の徒」を愛した。
「狂」の二面性
 自己完結的な狂と自己投棄的な狂。二つの著作「狂字論」と「真字論」。
「遊ぶものは神である」
 「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた」。道という字には首が付いている。氏族の長や従者たちは異族の首を掲げて行進した。
字書の哲学
 3冊の辞書、字統、字訓、字通。なぜ3部作か。漢和字典とはどこがちがうか。「辞書は刺激的なものでなくてはならない。知識とともに、思索をよび起こすものでなくてはならない」
辞典編纂者(レキシコグラファー)の歴史
 初の中国字書は『説文解字』白川字書は五十音順。
字書三部作
 白川さんは広瀬徳蔵の事務所に住み込みをした頃、最初に大槻文彦の国語辞書『言海』と菅野道明の漢字字書『字源』を入手した。
字統 文字の字源を理解するための字書。『説文解字』の転覆。『説文新義』が母体。
字訓 国語の字書。和訓や国訓。漢字の日本語的読み方。
字通 総合的な辞書。熟語。

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第七章 漢字という国語…………211
漢字の原理
 現存する唯一の象形文字。「秩序の原理」と「融即の原理」がしっかり根付いている。
 古代共同体という社会が作り出した秩序。兄は人がサイを戴いている形。人を漢字マザーにしてさまざまな形象をそこに付け加えて他の字を作る。
「漢字は日本の国字である」
 漢字は音訓の用法において国字である。国語と漢字とを習合し融会したところに国語が成り、その思惟の世界も、表現の世界も、その中に生まれた。
日本人の感覚で漢字をつかいこなす
 僧侶や官吏にとっての教典や公式文書として漢文を表現することはあったが日本全体には定着しなかった。
万葉仮名の発明
 夜久毛多都 やくもたつ 八雲立つ 万葉仮名
 6世紀の梁(りょう)の時代の前後に、漢字の音を漢字であてはめるという方法が工夫され、これを「反切(はんせつ)」という。日本に漢字がひろまっていったとき、折よくこの「反切」が一緒にはいってきていた。『古事記』を編集表記したときは、すでにこのような工夫がおこなわれつつあった。さらに倭語の読みを加え、和漢混交をなしとげていった。
和漢混淆−−日本人のデュアル・スタンダード
 日本人は「万葉仮名」を発明した。漢字を音読する(借音)。「天」を和風に「アマ」「アメ」と読み、その字義を確定していった(借訓)。「生」という漢字を「いきる・うまれる・ショウ・セイ・き・なま」というふうに使い分ける(多義的な解釈)。漢字を音訓両方で使うという決断をした。二つを時宜(じぎ)と目的と文脈と感覚により使いわける。
日本の文字革命=仮名
 「仮名」を発明した。漢字の真名に対して仮名。平仮名は女手、片仮名は官吏や僧侶が寄与した。草(そう)仮名から平仮名、別の工夫をした(漢字の部首を独立させた)。国語文化の原点である。
共鳴しつづける漢字の世界
 「おもふ」という言葉の漢字表記、『万葉集』では念ふ、思ふ、憶ふ、想ふ、『古事記』では欲ふ、疑ふ、懐ふ、謂ふ。ルビをふる表記法。白川さんの「文字講話」のしめくくり「漢字の将来」
 文字を遊ぶ。

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5. 著者紹介 松岡正剛(まつおかせいごう)
 1944年京都市生まれ。雑誌『遊』編集長、東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を経て、編集工学研究所所長・イシス編集学校校長。情報文化と情報技術をつなぐ研究開発に携わる。また「連塾」など私塾を多数開催。著書に『日本という方法』(NHK出版)、『知の編集工学』(朝日文庫)、『空海の夢』『17歳のための世界と日本の見方』(ともに春秋社)、『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)、『松岡正剛千夜千冊』(全7巻+別巻、求龍堂)ほか。Web「松岡正剛の千夜千冊」も日々更新中。 ホームページhttp://www.isis.ne.jp/isis/

6. あとがき  豆腐とニガリ
 白川静についての本が、研究書だけでなく、世の中に単著も新書も一冊もないとは驚きました。その一冊目を私が書くのだということを、ずっと昔から親しい平凡社の下中美都さんから優美に強迫されてからは、どうも落ち着かない日々でした。たとえば『白川静著作集』全12巻の月報に登場している方々こそ、著者としてふさわしいとおもっていたのですが、それはまた今後のことであるそうです。
 そんな按配(あんばい)になってしまったのは、きっと私が2008年の2月にNHK教育テレビの「知るを楽しむ私のこだわり人物伝 白川静漢字に遊んだ巨人」という番組で、白川さんについて4回にわたって語ったからでありまして、それは知り合いのプロデューサーが事を巧みにはこび、ディレクターが上手に構成したからのこと、だからといって、それは私が白川静の学問世界に詳しいということをなんら証拠だてるものでもないのです。あの番組は、専門研究者以外の者が傍目八目(おかめはちもく)の語部(かたりべ)になるというのが企画主旨なのですから。だから私は白川学についてはもちろん、漢字学についてもズブの素人(しろうと)なのです。
 ところがその番組にはたいそう反響があったらしく、白川さんのものを読みたいと感じた視聴者がたくさんいたというのです。たいへん嬉しいことでしたけれど、ちょっと複雑な気持ちにもなりました。というのは、それだけ白川静の世界観が知られていないということなのかもしれないからです。それとも『字統(じとう)』『字訓(じくん)』『字通(じつう)』の字書三部作はともかく、そのほかの本を手にとってみたら面白い漢字の本だと予想していたのに、あまりに難しそうなので敬遠していたということなのでしょうか。もしそうならば、敬遠をしてはいけません。
 たしかに白川さんの著作も白川さんの漢字世界観も、正直いって難解です。いや、深甚(しんじん)です。それは、私がおもうには「東洋学≒日本学」という方程式のようなものに正面から生涯をかけて立ち向かったからであって、この方程式に立ち向かった研究者たちは、徳川期の日本儒学者から明治大正昭和の東洋学者にいたるまで、実のところはことごとく難解深甚なのです。
 しかし、その難解でありながらも深甚であるところがたまらなく魅力的で、かつそのように漢字のもつ世界観のことや、東洋の言語思想や日本の文字文化について語る白川静がほぼ1世紀にわたってありえたということが、最も白川的であることのメッセージだと私はおもうのです。そのことは本書の随所に縷々(るる)説明しておきました。
 にもかかわらず、この数10年の日本に決定的に欠落していたのは、そのように「白川的であろう」とすることでした。
 何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいくしていこうとする、その日本の姿勢のほうがむしろ問題なのです。ですから、白川さんの本を読む、あるいはその研究を辿(たど)るということは、私たちにほぼ陥没して欠落してしまっているであろう「アジアの板木にひそむ深甚な世界観」にじかにふれるということであって、ということは、そのような白川的世界観を読むには難解な印象などをものともせずに、白川さん同様に「東洋学≒日本学」に立ち向かってみるということなのです。まず、そのことを言っておきたいとおもいます。
 ただし、白川さんの学問思想は漢字研究が中核にあったということもあり、近代日本がとりくんできた「東洋学≒日本学」の系譜とはちょっと異なっているように見えるかもしれません。実はそうではないのですが、そういう印象がもたれてきました。また、梅原猛さんが白川さんとの『別冊太陽白川静の世界』(2001年、平凡社)での特別対談で、「先生を偉いが異端の学者だと思ってました」「中国学の本道ではないと思ってました」と発言されているように、いわゆる白川学は長らく異端視されていたという事情もあったやに伝わってきます。

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 けれどもその梅原さんも、いや、一つの中国学がここで始まっているんだとのちに考えなおされたことにも暗示されているように、そのあたりをどのように評価するかは、いまだ学界的には定着していないのです。
 私は、リアルタイムの学問評価には往々にしてさまざまな偏見がともなうものなので、そんなことにはあまりこだわらないはうがいいし、しかも業績の評価なんてつねに毀誉褒貶(きよほうへん)はあるもの、気にしないはうがいいとおもうのですが、当然のことに一部の白川ファンにはそれがやきもきする原因にもなっています。しかしながらこういうことは、もっと大きな鳥瞰的(ちょうかんてき)な目で見るのがいいはずです。
 ただそれには、いささか近代以降の「東洋学≒日本学」の流れを知っておくことも必要で、そこで、この「あとがき」では、あえてそのあたりのことを少々補填しておくことにしました。

 日本の東洋学は那珂通世(なかみちよ)に発酵したのち、東京帝大系が先行して京都帝大系がこれを追うようなかっこうで、互いに競うように充実した発展と変遷をとげました。ちなみに「東洋学」「東洋史」という用語は、中国ではなくて日本が発案したもので、それをあとから中国も逆輸入しています。
 東西の学統は厳密には分けられませんけれど、おおざっばには市村讚(偏は言でなく王)次郎(さんじろう)・白鳥庫吉(くらきち)・服部宇之吉(うのきち)・鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)・藤田豊八(とよはち)・宇野哲人(てつと)らが東大派で、狩野亨吉(かのうこうきち)・内藤湖南(こなん)・狩野直喜(かのなおき)・羽田亨(はねだとおる)・青木正児(まさる)・吉川幸次郎・貝塚茂樹らが京大派です。
 なかで、おそらく内藤湖南を例にすると事情がわかりやすいとおもうので取り上げることにしますが、湖南が狩野亨吉や上田高年(かずとし)の招きで京大に来たのが明治40年(1907)でした。ほぼ同時期に西田幾多郎(きたろう)も京大に招かれます。狩野は漱石の友人でもあって、のちに安藤昌益(しょうえき)の『自然真営道(しぜんしんえいどう)』を発見した傑物(けつぶつ)です。
 湖南が京大で講義したのはシノロジーというもの、すなわち当時の言葉でいえば「支那学」でした。
 当初の講義名は清朝衰亡論、支那論、新支那論、支那上古史などで、のちに『支那史学史』『支那絵画史』などの大著となります。しかし湖南はそれとともに、早くから邪馬台国畿内(きない)論をはじめ、聖徳太子論、平安朝漢文学論、日本絵画史、新井白石論、富永仲基(なかもと)論、山崎闇斎(あんさい)論、山片蟠桃(やまがたばんとう)論などにもとりくんで、これまた彪大な著作群をもたらしていたのです。つまり支那学と日本学を一緒に凝視していこうとしたのです。
 なぜこのように湖南が早くから支那と日本を一緒に研究できたかというと、さかのぼれば明治18年(1885)に、東大総理であった加藤弘之が国書科と漢書科を文学部のなかに同時併設したことが最初のきっかけだったとおもいます。
 以来、明治の研究者は必ず和漢をまたいで学問研究にいそしむことになり、これを那珂通世・白鳥庫吉・内藤湖南らが東洋的日本学あるいは日本的東洋学として統合していったのです。以上が「東洋学」「東洋史」の初期の実態です。
 もっとも、このように東洋と日本を連続的に立体視するような見方は、その後は津田左右吉(そうきち)などによって批判をうけ、湖南がもっぱら東洋と日本を意識の淵源を同じくするものとしてとらえたのに対して、津田は「東洋という特別なものはなく、日本は世界の一部なのだ」と言います。

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 白川さんの東洋学はこのような流れをある意味では独自に、かつ正統に継承していました。そのことについては、たとえば「京都の支那学と私」という講演(『桂東雑記(けいとうざつき)』所収)で、おおむね次のように述べられていることでもわかります。
 私は昭和8年(1933)に立命館の夜間の国漢科へ入学し、東洋学の状況がどういうものかが初めてわかった。「それで京都大学の東洋学の機関誌であるところの『支那学』という雑誌を買い集めまして、よみはじめました」。「そういうものを読んで、支那学というものになるべく近づきたいというふうに思いました」。「京都大学には当時内藤湖南先生がおられた。狩野直喜先生がおられた。その教室で学ばれた方には、きら星のごとくに俊秀の方がおられて、私の恩師の橋本循(じゅん)先生もそのお一人であった。青木正児先生、本田蔭軒(いんけん 成之[しげゆき])先生、そういうふうな方々が皆活躍をなさっておって、私は橋本先生を通じて、そういう方々の活躍を、いろいろお聞かせ頂いた」。
 橋本循が東洋学の道案内をはたしたようです。こうした状況のなか、白川さんはやはりのこと内藤湖南に格別に惹かれていったのです。「先生の学問が大変魅力的であって、この先生の学問を何とかですね、うかがいたいというふうな気持ちを持っておりました」と言われています。
 ところが大学に入った翌年に湖南が亡くなってしまった。たいへんに残念がっておられます。「それで私は内藤先生の謦咳(けいがい)に接することはできなかったけれども」、内藤先生の頒寿(しょうじゅ)記念論文集が出ていて、そこに先生の署名が入っていたので、それがほしくてその書物を買ったのだと、そういうエピソードも回顧されている。古本で10円(現在の4〜5万円)だったそうです。
 内藤湖南についてはもっと端的に、こうも述べられています。「内藤先生のことは、そういうふうに私が一番最初に、いわゆる私淑(ししゅく)ですね、『孟子』がいうところの私淑である。直接にその人の教えを受けることはできんけれども、ひそかにそれに習うて自らを淑(よ)くするという、そういう私淑という気持ちで先生の著作に接しておった」というふうに。つまりは白川学の東洋学的起点は、おそらく内藤湖南にこそあったということです。
 ついでにもうひとつエピソードを書いておくと、湖南にはのちに『近世文学史論』と改題された『関西文運論』という著作があるのですが、白川さんはこれがたいへん気にいっていたようで、江戸期の文芸が関西に密度の濃いものが集中したことを湖南が言挙(ことあ)げしているのを、白川さんも共感をもって接していたというのです。
 ここには、まさに東大派と京大派の綱引きのようなものが、白川さんにも反映していたことが窺(うかが)えます。こんな感想も述べられています。「当時の東京大学の東洋学の伝統というふうなもの、お名前を挙げますと服部宇之吉であるとか、宇野哲人というような人であるとか、大体どちらかといえばあまり自己主張のない学問であります。(中略)そういうものに比べますと、京都学派の学問は方法論的にもしっかりしておりますし、その体格において誠に優れた、世界に誇るに足る東洋学であるということが言えたかと思うのであります」。
 白川さんは、ことほどさように湖南の見方に傾倒しているのです。いったい湖南の見方のどこに惹かれたのでしょうか。むろん中国と日本とを一緒に見るという研究態度が大きかったとおもうのですが、それだけでなく、その和漢をまたぐ視点に、ひとつ明確な方法意識があったことも大きかったと、私は感じています。
 そのことが湖南の『日本文化史研究』に暗示されています。東洋と日本との関係を"豆腐ニガリ説"で説明しているところです。湖南は支那が日本を覆(おお)っているとも、日本が支那から離れて独創的だとも言えない。そうではなくて、「日本にとっての支那文化は豆腐のニガリのようなものだ」というのです。いいかえれば、日本は中国のニガリによって日本を豆腐にできたのだというのです。
 こういう視点に、おそらく白川さんなりの「東洋学≒日本学」の発揚の拠点があったとおもわれます。それが 『詩経』と『万葉集』を同時に読むという、生涯を貫く方針の断乎(だんこ)たる確信とその実行になったのだとおもいます。
 このような東洋学の流れのなかで、日本人による漢字研究も次々に立ち上がっていったのですが、そのことは本文でも何度かに分けてふれたことなので、この流れはここでは省きます。

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 ちなみにこの分野の近代的先駆者は林泰輔(はやしたいすけ)です。林は朝鮮史学の泰斗(たいと)でもありますが、「周代書籍の文字及び伝来に就て」「説文考(せつもんこう)」「説文と金石文(きんせきぶん)」「河南省発見の亀甲牛骨に就きて」などの論文を、明治42年(1906)以前に発表しています。のちに『上代漢字の研究』を著し、大正7年(1918)には安陽(あんよう)の殷墟(いんきょ)の調査に赴(おもむ)いてもいました。白川さんの先駆者といえるでしょう。
 ついで、岡井慎吾が『漢字の形音義』『玉篇(ぎょくへん)の研究』『日本漢字学史』などをもって貢献しますが(岡井は福井の出身です)、ここからは諸橋轍次(もろはしてつじ)の『大漢和辞典』の編纂、貝塚茂樹らの古代文字研究、近代中国での甲骨(こうこつ)・金文(きんぶん)研究の流入、その日中共同の作業の促進などとなって、白川さんの漢字研究もほぼ同時に進行していくのです。
 本文でもふれたように、白川さんは段玉裁(だんぎょくさい)、呉大徴(ごだいちょう) (行にんべんの代わりにさんずい)、院(う冠は無い)元(げんげん)、馬叙倫(ばじょりん)、楊樹達(ようじゅたつ)、董作賓(とうさくひん)などを精読しつつ、しだいに独自の解釈に向かっていきました。羅振玉(らしんぎょく)・王国維(おうこくい)・郭沫若(かくまつじゃく)らの、いわゆる釈古派の研究を批判的に摂取捨象していた時期にもあたります。
 そうしたなか、一方では折口信夫(おりくちしのぶ)の民俗学などの援用をはじめ、白川さんはさらに「東洋学≒日本学」の地歩をきずいていきます。
 そこに大きく寄与したのが本文にも紹介したように、昭和26年(1951)に設立された「古代学協会」でした。そのメンバーに日本王朝史の角田文衛、ユーラシア全域に詳しい梅田良忠、インド宗教史の佐保田鶴治、古代中国と漢字研究の白川さん、日本考古学の三森定男といった顔ぶれがそろい、書記役に日本古代歴史学の直木孝次郎がついたことでも、この協会が「東洋学≒日本学」のさらなる深化のひとつのエンジンになったことは十分に推測できます。
 この時期は、昭和25年(1950)がおそらくひとつのターニングポイントだろうとおもうのですが、朝日新聞社社主の上野精一が収集した羅振玉旧蔵の甲骨三千余片が京大の人文科学研究所にごっそり寄贈され、それを貝塚茂樹を中心に解読に入ったという事情もありました。白川さんたちに多少の焦りがあったとしても、仕方がないことでしょう。しかし私はそこに加えて、日本の東洋学が吉川幸次郎の研究などによって、伊藤仁斎(じんさい)・荻生徂徠(おぎゆうそらい)らの日本儒学の読み替えに向かってすすんでいったことがわかってきたことも見逃せないと見ています。おそらく白川さんはそうしたすべての動向を睨(にら)みつつ、独自の思想を形成していったのです。
 それでは、なぜこのような白川さんの学問成果が"異端"とみなされたりしたのでしょうか。たとえば梅原猛さんは、当時の東洋学が総じてアポロン的(理性的)であったのに比較して、白川学がディオニソス的(情感的)だったとみて、白川さんの研究思想にニーチェふうのものを看取しょうとしていましたが、このような見方もひとつの答えかもしれません。また、白川学を学ぶにあたって、日本人が内藤湖南の人と業績をもはや知らなくなっているということなども、理由のひとつにあげられるのかもしれません。
 しかしながらさきほども言ったように、学問成果が正統か異端かなどということは、どうでもいいことなのです。私は今後は、白川さんの方法と思想はどんどん多くの人々の見方に撤種(さんしゆ)されていくだろうと確信しています。
 さて、最初に述べたように、本書は、もともとはNHKテレビの番組とそのためのテキストから出発したものです。それを新書のために換骨奪胎させ、いくつもの登攀口(とうはんぐち)が見えるようにしてみました。この「あとがき」に、本文でふれられなかった近代日本以降の「東洋学≒日本学」の歩みの一端を示してみたのも、その気持ちから出たものです。

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 けれども本書冒頭にも書いたように、これはあくまでひとつの試みであって、難解で深甚な白川静像に対するアプローチのための道案内の立て札だとおもってください。もちろん私なりに心したこともあります。それは、白川さんの「世界観」をできるかぎり角度を変えて、くりかえし説明しようとしたことです。そのため、甲骨文・金文などの漢字を取り上げるにあたっても、できるかぎり漢字的世界観の″マザー″にかかわる文字たちを紹介するようにしています。そのはかの厖大な文字がどんな意味や意義をもっているかは、字書三部作をはじめとした白川さんの著作であたってください。
 小さな本ではありますが、私自身はずいぶん緊張しながら仕上げました。姿勢をたださなければ書けない、と感じたのです。
 そのため執筆と進行にあたっては、平凡社の下中美都さんを筆頭に、編集を担当していただいたベテランの及川道比古さん、白川編集部の方々などに、おおいに手助けをしてもらいました。そのご協力がなければ、立て札を土に突き刺すいくつかの位置もおぼつかなかったのです。
 本書のきっかけとなった番組制作を担当されたNHKの上野智男さん、柄子和也さん、NHK出版の伊地知香織さん、講演ビデオなどの貴重な資料を提供していただいた文字文化研究所の宇佐美公有さんにも大感謝です。津崎史さんには、番組収録中から応援していただきました。このような方々のサポートがなかったら、何もスタートしなかったとおもいます。みなさん、ありがとうございました。
 それでは最後に、もう一度、白川さんの毅然(きぜん)とした言葉を引用したいとおもいます。呉智英さんが「雲山万畳、猶ほ浅きを嫌ふ」という丹念で絶妙なインタビューをされているのですが(『回思90年』所収)、その最後に白川さんがこういうふうに述べられているのです。
2008年9月    松岡正剛

7. 読後感
  この本を読んだことで、不完全ながら白川先生の業績の全容がわかった気がします。前の本(漢字百話)の時は、漢字の生い立ちを明らかにした功績を知ったのですが、この本で漢字だけでなく、万葉集と詩経、さらに孔子伝などの業績もわかりました。幸いにも私の住んでいる大田区の図書館には、三冊の字書「字統」「字訓」「字通」を初めとして、白川さんの著書がかなり揃っているので、これをキッカケに読み進みたいと思っています。

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[Last updated  3/31/2011]