本の紹介  伊藤博文

目 次

1. はじめに
2. 本 文
3. 著者紹介
4. 読後感

伊藤之雄著
(株)講談社
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1. はじめに
 NMCの「歴史に学ぶ会」では、この数年(2007年〜)明治維新以後の日本の歴史に名を残すような人物に焦点を当て、各自が交替でレポートしています。私は政治家として日本の近代化に貢献した伊藤博文を採り上げたいと思い、関連図書を当たったのですが適当な本がありませんでした。ところがこの本のことを新聞の書評で読み、読んでみたところ、とても良い本だと思いました。そこで後に示すような目次に従って内容をまとめ、2010.4.1の会で発表しました。幸い参加者の評判も良かったので、久しぶりに「近現代史」の1册として載せることにしました。

2. 本 文
[目 次]
1) 青春時代
2) 憲法(大日本憲法)制定と第1議会
3) 条約改正
4) 日清・日露戦争
5) 韓国総監と暗殺

1) 青春時代
 伊藤博文(ひろぶみ)は天保12(1841)年9月2日、周防国熊毛郡束荷(つかり)村(現山口県光市)で林十蔵(のちに重蔵)・琴(のちに琴子)夫婦の長男として生まれた。父は五反百姓だった。
 誕生の前年にアヘン戦争がはじまり、12歳になる3ヶ月まえにペリーが浦賀に来航した。
 長州藩では、伊藤の生まれる前の10年ほどの間に、幕末に活躍した俊英が、次々と生まれている。11年前に吉田松陰が、8年前に木戸孝允(たかよし)が、6年前に井上馨(かおる)が、3年前に山県有朋が、2年前に高杉晋作が、1年前に久坂玄瑞が生まれている。
 父は伊藤が5歳の時に破産し、萩に出て、足軽伊藤直右衛門に仕え、信頼を得た。安政元年、重蔵は伊藤直右衛門の養子となり、妻の実家に預けてあった、琴と13歳の長男伊藤を引き取った。こうして農民に生まれた伊藤博文は、足軽の身分になった。
 伊藤は子供の頃から体力があり、負けず嫌いだった。束荷村では手習い師匠三隅勘三郎に字を習い、11〜2歳のとき、久保五郎左衛門の塾に入った。久保は学究の人であり、読書・詩文・習字を習った。
 伊藤が政治家として大成していくのに、人間を信じる楽天的な性格が大きな財産になった。のちに伊藤は木戸孝允、岩倉具視(ともみ)、大久保利通(としみち)、明治天皇といった、出自のまったく異なる人々から信頼され、井上馨を生涯の友とし、陸奥宗光(むつむねみつ)、西園寺公望(きんもち)、原敬(たかし)らの腹心を得た。多くの人を引きつけた伊藤の魅力は、誠実な性格で、遠い将来までをしっかりと考えており、現実に対応できる柔軟さとともに、容易にぶれない理念があったことである。これは伊藤の父が二人を呼び寄せたことから、困難が起こっても努力すれば必ず何とかなるという楽天的な性格と、人を信じる性格を育てて行ったことにある。

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 嘉永6(1853)年ペリーが浦賀に来航し、翌年には日米和親条約が締結され、下田・箱館(函館)の二港が開かれた。その後幕府は、同様の条約をイギリス・オランダ・ロシア・フランスと結んだ。この間、幕府は諸藩に、江戸湾内海・相模・房総沿岸の警備を命じた。長州藩は相模の鎌倉郡の一部と、三浦郡の全部の警備を担当することになった。安政3(1856)年9月、14歳のとき、伊藤は手付(随従者)として、相模国宮田御備場出役を命じられ、宮田に赴任した。そこで伊藤は作事吟味役来原良蔵に出会い、来原の手付となった。1年後、勤番が終わったあと萩に帰ってから吉田松陰について勉学を進めるよう、紹介状を書いてくれた。
 伊藤が入塾した翌年安政5(1858)年7月、長州藩では6人の青年を選んで京都に派遣し、時勢を学ばせることになり伊藤も選ばれた。ここで同じく選ばれてやって来た山県有朋と初めて親しく交わった。10月初めに萩に戻ると、来原良蔵の手付として長崎に行き、練兵や砲術を習った。その後、来原は義兄の木戸孝允(桂小五郎)に託して江戸で修行させようとし、木戸の手付になった。また、江戸で井上馨と出会った。
 安政6(1859)年10月29日、伊藤は木戸に付いて二日前、江戸小伝馬町の牢内で処刑された松蔭の遺体を引き取りに行った。伊藤はイギリスへ密航してから、西洋の近代文明に圧倒され、攘夷を捨て,しだいに長州藩主や藩を相対化し,天皇を「忠誠」の対象として、明治初年から廃藩置県を主張し、立憲国家の形成を目指していく。また天皇の言うことに単に服従して従うのではなく,天皇が「世界の大勢」を踏まえた、あるべき君主になるよう天皇を教育し、名君としての資質を引き出した上で、天皇との信頼を基に、政治を行って行くという態度は松蔭から学んだことである。
 伊藤は塙(はなわ)次郎が、幕府から廃帝のことについて、取り調べを命じられていることを聞き、山尾庸三と二人で斬殺した。
 文久3(1863)年5月12日、イギリス船で伊藤は4名の長州藩士とともにイギリスに渡航した。国に対しては密航で長州藩としては許可を得ている。まず化学教授の家に寄宿し英語を勉強した。伊藤は英国の文明の進歩と国力が強大であることに感服し、攘夷の考え方を捨てた。伊藤にはすぐに外国人と仲良くなり,信頼を獲得する才能があった。
 伊藤が出発する2日前、長州藩は米国商船を砲撃し、薩摩藩も英国艦船と交戦した。寄宿先のイギリス人から、これらの記事が掲載された新聞を読み,井上馨と帰国を決意した。元治元年(1864) 6月10日頃、帰国し横浜に上陸した。
 その頃、イギリス公使オールコックスは米・仏・蘭の代表と共同行動に備えて協議していた。伊藤と井上馨は、公使に会いに行き、藩主を説得する予定だと告げ、山口の近くの港まで送ってもらえるように依頼した。結局姫島まで送ってもらい、歸藩した。藩には攘夷中止を献言したが、難しい時期で、外国艦隊との応接を命じられた。
 6月5日に京都の旅館池田屋を新撰組が襲い、薩長の志士7名が殺された。7月19日に上洛した長州藩兵は御所の周りで幕府側に立つ会津・薩摩藩兵と交戦し大敗した(禁門の変)。
 元治元年(1864) 8月5日、英・仏・米・蘭連合艦隊は馬関(下関)を砲撃し、長州藩の砲台を圧倒し、上陸して砲台を占拠した。伊藤は通訳として講和交渉に参加し、講和にこぎつけた。
 長州藩には「俗論派(幕府に対して恭順の姿勢を示す)」と「正義派(幕府と戦うべしと主張)」に分かれ,争いがあった。高杉晋作によって発足し、山県有朋が軍監を務めた奇兵隊は正義派である。最終的に正義派にまとまったため、幕府との対決姿勢となり、幕府は慶応元年(1865 元治2年を改元)4月13日、長州再征を諸藩に命じた。
 藩内の争いを避けるため出石(いずし)に潜んでいた木戸孝允は帰藩し長州藩政を握った。伊藤は武器買い付けのため長崎に出張し、薩摩藩の大久保利通(としみち)に会った。
 他方、土佐藩を脱藩した坂本龍馬・中岡慎太郎らは、薩長の提携を策していた。伊藤の武器(軍艦と小銃)購入には薩摩藩が絡んでいたこともあり、薩長連携の機運が高まり慶応2年(1866)1月21日には、木戸と西郷隆盛の間で、幕府の長州再征には薩摩藩が従わないと
いう密約(薩長同盟)が成立した。

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 慶応3年(1867)10月14日、第15代将軍徳川慶喜は、前土佐藩主山内豊信(とよしげ)の助言を入れ,大政奉還の願いを朝廷に提出した。それに対し、15歳の天皇(明治天皇)の祖父で中堅公家の中山忠能(ただやす)は岩倉具視(ともみ)と相談し、同日に倒幕の密勅が薩長両藩に下された。11月17日、薩摩藩主島津忠義(ただよし)に率いられた薩摩藩兵は、三田尻(みたじり 現山口県防府市)に入港し、毛利敬親父子が合同した。長州藩の先発隊は29日に西宮に到着し、その後も続々と薩長の将兵が続いた。
 慶応4年(1868)1月3日〜4日に鳥羽伏見の戦いが起きたが、伊藤は長州に戻っていたため参加できなかった。鳥羽伏見の戦いで新政府軍が圧勝したとの報を聞いて、1月10日、英国軍艦に便乗し、12日に兵庫に到着した。
 伊藤が神戸に着く前日、神戸事件(岡山藩兵発砲事件)が起こった。伊藤は兵庫に着いてこの事件を知ると、前から心易いパークス英国公使のところに直行した。伊藤は公使の言い分を聞き、大阪にいた外国事務取調掛東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)に、会見について述べ、まず王政復古の事実を大国の代表者に宣言し,次いで岡山藩兵発砲事件の処理をすべきである、と進言した。東久世は直ちに伊藤の進言を入れ,翌13日に伊藤を新政府に任官させ、外国事務掛を命じた。こうして新政府は、1月13日に新政府が幕府の条約を引き継ぐ宣言を行った。
 伊藤は、外国公使団を新政府支持につなぎとめることが、これからも続いて行く徳川方との戦争である戊辰戦争を勝ち抜くために必要だと判断した。そこで2月9日、新政府は外交使節団の主張通り、謝罪した。
 国王など国の元首は,外国の公使が新たに赴任して来た際に謁見を許して信任状を受け取らなければならない。2月30日、天皇は英仏蘭国各公使に謁見し,伊藤は通訳を務めた。彼は慶応4年1月から3月までの2ヶ月間の活動により,新政府に地位を確保し、5月23日に兵庫県知事に任命される土台を固めた。

2.) 憲法(大日本憲法)制定と第1議会
 伊藤は大臣少輔(しょうゆう 次官クラス)のとき、米国の理財に関する諸法令、国債、紙幣および為替、貿易、貨幣鋳造に至るまで調査し、日本の制度を確立するため、出張の建白を政府に提出した。これが採用され、明治3年(1870)11月2日、出発し、翌4年5月9日に帰国した。伊藤は本来の渡航目的である大蔵省の実務に関する調査や大蔵省の職制改革の調査の合間に、アメリカ合衆国憲法の制定過程まで研究した。
 明治14年(1881)政変が起こり、1890年に国会を開くことが決まると、日本に憲法を作るにあたっての根本を学ぶため、伊藤はヨーロッパへ憲法調査に出かけた。どのように日本の仕組みを変えるか,という大枠を知ろうとした。その随員の中には,伊藤が創設した
立憲政友会の第2代総裁になる、32歳の西園寺公望(きんもち)もいた。伊藤の憲法調査のための訪欧は1882年(明治15年)3月14日〜1883年(明治16年)8月3日で、ベルリン大のグナイストが推薦したモッセと、シュタイン・ウイーン大教授から教えを受けた。その結果,国家組織の大体を了解することができ、皇室の基礎を固定し、天皇の大権を衰退させない、という大目的は充分見通しがついた。と自信を示した。
 帰国した伊藤は憲法準備のため制度取調局を設置し,自ら長官を兼任した。
 1886年(明治19年)5月頃、伊藤は井上毅(こわし)、伊東巳代治(みよじ)、金子堅太郎の3人に対し、欽定(きんてい)憲法(天皇が作った憲法)主義・両院制議会など憲法草案の原則を示した。この3人は制度取調局のメンバーである。これを基に憲法草案が作られ,1888年(明治21年)4月27日、上奏すべき憲法草案が確定した。一方、明治天皇は30歳過ぎても政治の実権が与えられていないことに不満を持った。そこで天皇の信頼厚い侍従の藤波言忠(ことただ)をヨーロッパに出張させ、シュタインの講義を聴かせた。藤波は1887年11月に帰国した後、天皇、皇后に講義した。こうして憲法を運用するのにふさわしい天皇を育成し、その意味でも憲法発布の準備は進んだ。
 1888年(明治21年)4月30日、憲法や皇室典範などの重要法令を審議するため、枢密院が設置され、伊藤は首相を辞任して初代の枢密院議長になった。
 1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法(明治憲法)が発布され、同時に議院法・衆議院議員選挙法・会計法・貴族院令の憲法付属の各法令が公布された。同日に皇室典範も制定された。

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 1890年(明治23年)7月1日、山県内閣は第1回総選挙を実施し、11月29日、第1回帝国議会が開会された。3月8日に閉会式を迎えるまで,予算案の成立、憲法第67条(予算の決定方法)の解釈などを巡って、問題を解決して行った。
 1903年(明治36年)9月13日、立憲政友会が創設され伊藤は総裁になった。政策の立案と政権担当能力のある近代的な政党を創ろうとした。
 日露戦争の後、陸・海軍とくに陸軍が自立傾向を見せ始め、伊藤は憲法を改正して、陸・海軍を内閣の統制下に置くことを考えた。しかし山県が異議を唱え、憲法改正が行えず、さらに公式令によって補完しようとしたが、軍令制度ができたため骨抜きになった。
 「5. 韓国総監と暗殺」で述べるように、伊藤は韓国総監として、ハーグ密使事件がもとで韓国皇帝高宗(コジョン)を退位させ、第3次日韓協約を結んだので、義兵運動の盛り上がりに悩んでいた。その鎮圧には,山県元帥や陸軍の全面的な協力が必要である。ハーグ密使事件が起こらなかったら、もしくは伊藤が総監になっていなかったら、軍令は公布されず、首相による陸海軍の統制が公式令によって強められ,新しい明治憲法体制が展開していたことであろう。

3) 条約改正
 廃藩置県が軌道に乗ると、条約改正のために欧米に全権大使を派遣することになった。安政5年に幕府が米国と結んだ修好通商条約等は、治外法権(領事裁判権)があり、関税自主権がない不平等条約だった。これらの改正期限は、明治5年に迫っていた。日本は欧米のような法律も制定しておらず、新しい有利な条約を結べる状況にはなかった。そこで、条約改正について欧米諸国と協議するための使節団を派遣することになった。
 明治4年(1871)11月12日、岩倉具視を団長(特命全権大使)とし、木戸、大久保、伊藤、山口を特命全権副使とする岩倉使節団が米国に向け出発した。米国との条約改正交渉で日本の提案に応じなかったので、訪問のみを続けることとし,米国で半年,英国で4ヶ月、仏国で2ヶ月、独国で延べ1ヶ月、露国で半月にわたって視察した。
 伊藤が憲法調査の目的で独国を訪れた際、首相ビスマルクと会見し、条約改正につき彼が日本に好意的な姿勢を持っていることを知った。列強相互にも矛盾があり、列強の行動規範をよく理解し、それにのっとって合理的に粘り強く交渉すれば,道が開けることを知った。
 この後、井上毅、大隈重信と組んで条約改正を試みたが、うまく行かなかった。
 1893年(明治26年)7月5日、陸奥外相より条約改正の方針が閣議(第2次伊藤内閣)に出され、19日に天皇の裁可を得た。
 1894年(明治27年)7月16日、イギリス外務省で、イギリスとの新条約を結ぶことができた。その内容は、第1に治外法権を撤廃し、第2に付属議定書での規定も含め,関税を5パーセントから、個別品目について5パーセントから15パーセントの間で協定するもの
だった。これらの改正で,日本は独立国としての誇りを得、国内産業の保護をかなり達成できるようになった。第3に外国人の住居や旅行などに制限を加えない、いわゆる内地雑居を認めた。第4に新条約の期限を、実施から15年としたことである。残された問題は、アメリカ・フランス・ドイツ等ともイギリスと同様の条約改正を行うことであった。

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4) 日清・日露関係
 明治維新後、近代化を進める日本と老大国の清国とは、琉球を巡る国境線の問題などで対立していたが、1879年(明治12年)に伊藤参議兼内務卿の主導で、琉球は沖縄県として日本に編入された。
 その後、1880年代になると、日本は朝鮮国の近代化を支援しようと、積極的に動くようになった。朝鮮国は清国の属国だったが,弱体のままだったので、日本はロシアが進出することを恐れ、親日派を育成しようとしたからである。
 壬午(じんご)事変(省略)
 甲申(こうしん)事変(省略)
 天津条約(一部省略)
 天津条約を結ぶ際,特派全権大使として天津に派遣された伊藤は、領事館で生活し、天津領事であった原敬(たかし)と親しくなった。
 1894年(明治27年) 6月2日、伊藤内閣(第2次)は朝鮮に混成旅団(兵力は数千名)を出兵することを決定、5日に派兵した。もし清国との戦争になった場合、いずれの国を頼るかが問題になったが、最終的に英国を頼ることに決定した。
 混成旅団長大島は7月23日早朝に独断で王宮を占領し、次いで25日、日本海軍は、清国兵を運ぶ輸送艦と護衛艦を、豊島(ほうとう)沖で撃破し、日清戦争が始まった。
 日本が混成師団を朝鮮に派兵した次の日、出兵した将兵を統率する最高作戦指導会議として、大本営が参謀本部に置かれた。最初の会議は、7月14日に天皇の出席する御前会議として開かれ、参加者は武官だった。天皇は7月27日の大本営会議に伊藤首相に参加を命じた。
 日本陸軍は9月15・16日の平壌(ピョンヤン)の戦いに、海軍は17日の黄海海戦に圧勝して,日本の勝利が固まった。
 2月2日に日本軍は,清国最強の北海海軍の根拠地で、山東半島にある威海衞(いかいえい)を占領した。こうして3月20日、伊藤首相と陸奥外相が全権となり、清国の李鴻章(りこうしょう)全権と、下関で講和会議を始めた。4月17日、朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両(テール 約3億1千万円)の支払からなる日清講和条約が、下関で調印された。
 下関講和条約の内容を知ると、ロシアはドイツ・フランスを誘い、遼東半島を清国に返すように日本に勧告した (三国干渉) 。閣議で三国の提言を入れ,遼東半島を放棄することに決定した。
 朝鮮国での日本の立場を挽回するため、1895年(明治28年) 8月17日、井上馨に代わって新たに三浦梧楼(ごろう)が朝鮮公使に任命された。彼が赴任すると、明成(ミョンスン)皇后(閔妃みんぴ)が実権を握った李王側が、日本の将校が訓練した軍隊、訓練隊の武装解除を承諾するよう求めてきた。三浦公使は、国王の父である大院君(テウオングン)を擁して、クーデターを行うことを決意した。こうして10月7日夜から8日の早朝にかけて、クーデターが行われ,漢城(ソウル)の景福宮に押し入って、明成皇后らを殺害した。三浦公使は罷免されたが広島で行われた裁判では,証拠不十分として無罪になった。
 駐日ロシア公使は、この後、日露の協商を働きかけた。1896年(明治29年) 6月9日に、朝鮮において日露が政治的に対等であるとの主旨で、山県−ロバノフ(ロシア外相)協定が成立した。
 1901年(明治34年)9月18日、伊藤は横浜港を出港し、米国、仏国経由でロシアのペテルブルグに入り,皇帝ニコライ2世、ラムスドルフ外相、ヴィッテ蔵相と会見し、日露協商の成立をはかった。しかし同時に進めていた日英同盟協約が1902年(明治35年)1月30日、ロンドンで調印された。この協定で韓国が日本の勢力圏であることや、その権益の維持もイギリスから承認された。
 ロシアは義和団の乱(当初は義和団を称する秘密結社による排外運動であったが、1900年に西太后がこの反乱を支持して欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった)で、シベリア鉄道の支線として工事中の東清鉄道に、人的・物的な被害を受けていた。そのためロシアは満州に駐兵しつづけた。ロシアは1903年からの第2次撤兵を実行せず、清国に対し、満州における清国の行政権や他国の進出を制限する新しい要求を行った。

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 その後も何回かロシアと接触があったが、1904年(明治37年)2月4日、伊藤ら五元老と桂・小村ら主要五閣僚が集まって御前会議を行い、日露開戦を決定した。その後、伊藤は腹心の金子堅太郎貴族院議員(前農商相・法相)を派米し(ローズヴェルト米大統領とハーヴァード大学の同窓)、同じく腹心で,娘の生子(いくこ)の夫である末松謙澄貴族院議員(前逓相・内相)を派英・仏(ケンブリッジ大学で学んだ)した。
 伊藤は韓国に日本の方針を理解させ、日本の行動に協力させるため特派大使を拝命し、3月20日に韓国皇帝高宗(コジョン 李熙イヒ)に謁見した。伊藤は韓国皇帝高宗に日本が明治維新以来行って来た近代化のための改革と日本の援助を提案し、それを実施すれば韓国も清国も独立できるとした。
 その後、1904年(明治37年)5月1日、日本軍は韓国と満州の国境にある鴨緑江を渡り、九連城を占領した。さらに、8月10日の黄海海戦の勝利,9月4日の遼陽占領、10月10日から20日の沙河(さか)会戦の勝利,翌1905年1月1日には旅順のロシア軍も降伏した。また12月中旬までに旅順港のロシア艦隊に、地上からの砲撃で大打撃を与えた。1905年3月1日から10日までの奉天会戦は,日露戦争最大の陸上戦闘であった。この戦いで日本軍は勝利を収めた。その頃から我が国では講和の機運が高まった。しかし、ロシア皇帝ニコライ2世の期待するバルチック艦隊が日本方面に向かっており、ロシアにはその気がなかった。5月27日から28日にかけて日本海海戦が行われ,ロシアの戦艦8隻すべてを失って講和への動きが急速に進展した。
 9月5日、日露講和条約はポーツマスで調印され、日本は韓国の保護権、遼東半島の租借権、樺太の北緯50度以南,東清鉄道の長春―旅順口間、沿海州の漁業権などを得た。

5) 韓国総監と暗殺
 1905年(明治38年)11月5日、伊藤は韓国への特派大使として漢城(ソウル)に行き,韓国皇帝高宗(コジョン)に謁見し、第2次日韓協約案を示し、日本への外交委任を求めた。案は少し修正され、18日に調印された。その内容は,第一に、韓国の外交を東京の日本外務省が担当し、日本の公使・領事などが、外国での韓国人やその利益を保護する等、韓国の外交権を日本が行い,第二に、韓国での日本の代表者として1名の統監を置き,統監は「専ら外交に関する事項」を管理するため漢城(ソウル)に駐在し,韓国皇帝に内閲する権利を有することである。
 1905年(明治38年)12月21日、伊藤は初代韓国統監に就任した。伊藤の統治構想として、韓国の近代化のために自ら費用を負担すべきで,当面の費用は相当量を借款に求めて一時の急に対応すべきだと考えた。ただ当面必要な資金は日本が責任を持つとの考えだった。借款で得た資金は農業や教育に使おうと考えた。
 1907年(明治40年)3月20日、伊藤統監は正月を日本で過ごし、4ヶ月ぶりで漢城(ソウル)に戻った。伊藤はすぐに韓国の政情が一変していることを知った。韓国人の団体や,新聞などが、韓国の内閣を攻撃していた。韓国は長い間独立国だったので、日本が韓国を併合しようとしていると疑う者も多かった。
 1907年6月下旬、オランダのハーグで開かれる第2回万国平和会議で、韓国皇帝高宗(コジョン)の派遣した密使は、保護条約の無効を列強に確認させようとした。しかし密使は、会議の主催当局から正式の代表として認めることを拒否された。伊藤は他の元老とも相談
し高宗を退位させ、その子の純宗(スンジョン)が即位した。また第3次日韓協約が結ばれた。内容は内政権も統監の管理下に置くものである。この時点で、山県や山県系官僚は、韓国併合を具体的な目標として考え始めたが、伊藤に遠慮していた。
 伊藤は次に韓国の宮中と府中(政府)の区別を進め、同時に宮中を縮小するという、念願の宮中改革を本格化させた。また、1907年11月13日に皇帝純宋(スンジョン)と皇太子(李恨イウン 恨は土扁)を昌徳宮に遷宮し、慶運宮に住む太高帝(前皇帝の高宗)と引き離した。
 また、日本の皇太子嘉仁(よしひと)親王(のちの大正天皇)の訪韓と、李恨の日本留学を実現させた。
 伊藤が梅謙次郎を統監府法律顧問に迎え、倉富勇三郎を呼び、1907年(明治40年)12月、裁判所構成法、同施行法、同設置法が公布され、韓国の司法制度の骨格が定まった。日本をモデルとし、大審院、地方裁判所、および区裁判所を置くものである。また租税収入の増加に努力し、1907年には前年の1.6倍の894万円になった。

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 1908年(明治41年)7月初旬、伊藤統監は、辞任して曽祢副統監を後任にしたい、という意向を申し出た。辞任したいと考えた理由の一つは、病気をしたりして、日本と韓国を往復することが老体にこたえるようになったことで、統監として2年以上経ったにもかかわらず、一般の韓国人でも排日思想を持っていたことも一因とみられる。
 1909年(明治42年)1月に南韓、月末から2月に北韓への皇帝の純宗(スンジョン)の巡幸を実施し、伊藤も陪従した。
 1909年(明治42年)3月30日、小村寿太郎外相は桂太郎首相に韓国併合に関する方針を提示し,4月10日に伊藤統監を訪れてそのことを述べたところ、伊藤も同意し、辞任の意思を伝えた。その2ヶ月後、6月14日に統監を辞め、曽祢副統監が統監に就任した。伊藤は山県から枢密院議長の職を譲り受けた。
 8月、桂内閣の後藤新平逓相は伊藤に、欧州を漫遊し関係列強の指導者と会見し日本の真意を了解させ、それに先立ち、ロシアの東洋主管者のココーフツォフ蔵相に日本の方針を暗示してはと提案した。その結果、10月下旬にハルピンで二人が会見することになった。
 日本の憲法政治は定着しつつあり、韓国問題の心配と、清国に立憲制導入の支援という二つの外交問題が残っていた。
 1909年(明治42年)10月16日、伊藤は門司から乗船し、18日に大連に到着した。その後、旅順・遼陽・奉天・撫順を経て、25日長春に到着した。
 10月26日午前9時、ハルピン駅に到着した。ココーフツォフ蔵相は駅で伊藤を迎え、ココーフツォフの希望でロシア軍守備隊を閲兵し、各国領事団が整列した位置に進んで握手をかわした。午前9時30分、軍隊の後方より青年が突然現れ,伊藤に近づき、ピストルを数発撃った。安重根(アンジュングン)である。二つの弾丸が肺を貫通したのが致命傷となり,死去した。享年68歳である。
 伊藤の葬儀は国葬で行うことになり,11月4日、日比谷公園で実施された。
 伊藤の暗殺により韓国の併合が強圧的になり、時期も早まった。1910年(明治43年)8月29日、併合が実施され、韓国政府の自治権も制限された。

[参考書]
1. 日本の歴史21 近代国家の出発 中央公論社
2. 岩倉使節団「米欧回覧実記」   田中 彰著 岩波書店 2007.2.15 第4刷発行

3. 著者紹介
伊藤之雄(いとう・ゆきお)
 1952年、福井県生まれ。京都大学文学部史学科卒業。同大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。名古屋大学文学部助教授等を経て、現在、京都大学大学院法学研究科教授。1995〜97年、ハーヴァード大学イェンテン研究所・同ライシャワー日本研究所で研究。専攻は近・現代日本政治外交史。主な著書に『立憲国家の確立と伊藤博文』(吉川弘文館)、『明治天皇』(ミネルヴァ書房)、『政党政治と天皇 日本の歴史22』(講談社)、『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』(名古屋大学出版会)、『元老西園寺公望』『山県有朋』(ともに文春新書)などがある。
 愛犬に俊輔の名をつける。

4. 読後感
 従来、伊藤博文の評伝は、数が少なかったのですが、良い本に巡り会うことができました。
 勉強会で、維新前後の歴史を勉強していたので、採り上げる項目を決めるのに役立ちました。
 この時代の政治家の勉強をしたのは初めてだったので、歴史上の人物を勉強するときの、軸ができた気がしています。
  (2010.5 鈴木靖三)

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[Last updated 5/31/2010]