本の紹介 寺よ、変われ

  目 次

1. 本との出会い
2. 本の概要
3. 本の目次
4. 本の内容
5. 著者に会いたい
6. 著者紹介
7. 読後感





高橋卓志著
岩波新書
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1. 本との出会い
 2009年7月12日の朝日新聞の「著者に会いたい」欄に「寺よ、変われ 高橋 卓志さん(60) 『苦』と向き合う拠点たれ」という記事が載っており、このページの第5項の通りです。早速買い求め、こうしてホームページに載せるとともに、「新書を読む会」でも取り上げることになりました。かねてから疑問に思っていたことが、沢山載っていました。

2. 本の概要
 日本の寺は、いまや死にかけている。形骸化した葬儀・法事のあり方を改めるだけでなく、さまざまな「苦」を抱えて生きる人々を支える拠点となるべきではないか。「いのち」と向き合って幅広い社会活動や文化行事を重ね、地域の高齢者福祉の場づくりにも努めてきた僧侶が、その実践を語り、コンビニの倍、八万余もある寺の変革を訴える。(本の裏カバーより)

3. 本の目次
プロローグ―――世界は「苦」に満ちている………………1
 現代社会に充満する閉塞感/オウム真理教と無差別殺人/「四苦」と伝統仏教/死者たちから問い詰められて/「苦」から「共苦」

第1章 寺は死にかけている………………………………13
 大盛況の「国宝薬師寺展」/『がんばれ仏教!』の激励と挑発/「死後」のみにかかわる仏教/「死にかけて」いた病院−−その甦り/「死にかけて」いた寺−−限りなく瀕死へ/「世襲」−−日本仏教への問い/本来の「戒」が失われている/思考停止状態/期待する声、絶望の声

第2章 なぜ仏教の危機なのか……………………………31
 「仏教の出番」と期待されても…/団塊世代と仏教/「メメント・モリ=死を想え」/仏教は支えてくれない/「千の風」吹きわたる/悲嘆の支え(グリーフ・ワーク)/「いのち」の定義が変わる中で/先端生命科学からの問い/生命の始点も終着点もあいまいに/真理に触れる/寺が消える/僧侶排除葬儀と檀家システム崩壊/僧侶派遣会社/あせりへの対応という危機/頻発する寺と檀家のトラブル

第3章 苦界放浪―――いのちの現場へ…………………77
 原因は坊さんたちに/「お前の家は、人が死んだら儲かる」/号泣−ビアク島の洞窟で/悔し涙−チェルノブイリ汚染地域の病院で/「生きたい」−−タイのエイズホスピスで/「開発僧」の言葉/死の周辺、死の現場へ

第4章 寺よ、変われ…………………………………………99
 陰徳で寺は変わらない/固定観念では寺は変わらない/人の出入りが寺を変える/法要を変えれば寺は変わる/面白ければ寺は変わる/人々のニーズを受け取れば寺は変わる/山門を開けば寺は変わる/若者が寺を変える/平和への希求が寺を変える/視野を世界に広げれば寺は変わる/公益を取り込めば寺は変わる/情報公開で寺は変わる/NPOとかかわれば寺は変わる/寄付金を強制しなければ寺は変わる/コミュ二ティに入り込めば寺は変わる/死に際にかかわれば寺は変わる

第5章 葬儀が変われば、寺は変わる………………………173
 檀家の流動化が葬儀を変える/リビング・ウイルが葬儀を変える/旅立ち前からのかかわりは葬儀を変える/改革への覚悟が葬儀を変える/丸投げしなければ葬儀は変わる/戒名への意識変革が葬儀を変える/手を抜かなければ葬儀は変わる/本当の葬式坊主が葬儀を変えていく/塞が檀家システムを変えていく

エピローグ―――寺が変われば社会は変わる……………215
 「死に至る」可能性/変わるために動かねば…/四苦に真正面から向き合って/「寺とは」「坊さんとは」

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4. 本の内容
プロローグ―――世界は「苦」に満ちている
 導入部として仏教を取りまく環境、わが国の問題点、この本のあらましなどを述べている。

第1章 寺は死にかけている
 寺はどういう状況にあるか。

第2章 なぜ仏教の危機なのか
 現状把握と問題点を考える。
 「仏教は支えてくれない」
  団塊世代と死や仏教との関係は希薄で、距離感は極めて大きい。団塊世代の多くは、自分の死を仏教は支えてくれない、くれるはずはないと思い込んでいるし、現代の仏教は彼らを受け入れるシステムや戦略を持っていない。
 「悲嘆の支え(グリーフ・ワーク)」
 現代の伝統仏教の葬儀には、悲嘆の支えというシステムは稼働していない。
 「寺が消える」
  ニューヨーク・タイムスの記事は日本の仏教に関して次のように報じている。
  1. 葬式仏教が揺らいでいるという危機
  2. 家族的経営である寺が消えるという危機
  3. 葬儀社とのかかわりによる葬儀のカタチの変化による危機
  4. 檀家システムが崩壊するという危機
  5. 戒名や布施というお金にからむ悪いイメージを与えているという危機
  6. そしてそれらから抜け出すための「あせり」という危機

第3章 苦界放浪−−いのちの現場へ
 著者の経歴と気付き
(1) 著者の略歴
  小学校3年で得度 大学院を中退した年、宗派の専門道場(僧堂)へ掛塔(かとう 入門)した。寺での仕事は魅力のないもので、登校拒否と同じ現象を経験した。
(2) 著者の問題への気付き
  ピアク島の経験 次項[ビアク島の洞窟での経験]参照
 筆者は、このほかにも次の二つの経験をしている。
 悔し涙−−チェルノブイリ汚染地区の病院で チェルノブイリ原子力発電所の大爆発の汚染により、白血病になった6歳のコンスタンチンの母親から、日本に連れ帰って治療することを依頼されたが、どうすることもできなかった。
 「生きたい」−−タイのエイズホスピスで 28歳でエイズが発症したワーンという女性からは、Wanna(I want to) live.といわれたが、どうしてやることもできなかった。

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[ビアク島の洞窟での経験]
1978年8月、私は背後にKさんの号泣を聞きながら、お経を誦(よ)んでいた。初めて経験する、つらい読経だった。ニューギニア西部の北西に浮かぶ小さな島、ビアク島モクメル洞窟でのことだ。
 当時、本山妙心寺の管長をされていた山田無文老師は太平洋戟争時、師匠の関精拙(せきせいせつ)老師に随行して中国の戟地将兵を慰問し、激励されたことを深く悔い、南太平洋やアジアへの慰霊行を続けておられた。その無文老師から「ついてこい」と言われたとき、私には慰霊行の意味すらわからず、戦争の悲惨などわかるはずもなく、ただ外国に行けるということだけで「はい」と答えていた。39人の慰霊行参加者はニューギニア方面で戟死された方々の遺族や遺児、戦友そして私を含めた5人の随行僧だった。
 日本から直線距離にして約5千キロメートル、現在ではニューギニア島の西の端、ヘルビング湾の中にある東西120キロ、南北60キロの島がビアク島だ。太平洋戟争中ニューギニアで戦死した日本人将兵は20万人を超える。そのうちニューギニア西部では8万人余が、そしてこの小さな島ビアクでは1万人以上が死んでいる。
 ニューギニアはマッカーサーが日本本土に向けて攻め上る起点となった島である。1942年、日本軍によってフィリピンを追われたマッカーサーは、有名な「アイ・シャル・リターン」という言葉を残すのだが、その言葉通り反撃を開始し、強大な物量と兵員をもってニューギニア東部からニューギニア西部へと攻め上り、ビアク島を攻略した後、フィリピンのレイテ島に上陸している。その通過経路の要衝がビアク島であり、日本軍守備隊との間で激烈な戦闘が展開されたのだ。1944年5月以降、日本軍の10倍ともいわれる火器と兵員を持つ米軍のすさまじい攻撃が始まり、日本兵はジャングルの奥へと追い込まれて行った。珊瑚礁の島は洞窟が多い。無数にある洞窟は、追い込まれた日本兵の切り込み基地となり、野戦病院にもなっていたという。
 ビアク島に到着した早朝から慰霊行は始まった。私たちは海を見下ろす日本名「天水山」の下の巨大な洞窟に入った。洞窟の中には大量のドラム缶が転がっていた。機銃掃射を受けた穴が無数にあいている。ガソリンが満タンのドラム缶が投げ込まれ、機銃掃射が加えられ、火炎放射器で火をかけられたという。ここはそのようにして1000人以上の兵士が一瞬にして焼け死んだ場所なのだった。天井からはとめどなく水滴が落ちるため、足首あたりまでが泥水に沈む。ムッとする湿気が全身を包み、不気味な妖気が感じられる。そのとき現地のガイドが私の足元を指しながら「タカハシさん、ホネ、ホネ」と叫んだ。私はその意味が理解できなかった。ホネ? 骨とは何だ? なんの骨だ?
 泥水に手を差し込んだとき、私は兵士の骨を探り当てていた。足の下には累々たる兵士たちの遺骨があった。その遺骨の上に私は立っていたのだ。戦争を知らず、高度経済成長のど真ん中で日々の快適さを享受し、いのちの意味や人間の苦しみなど深く考えたことがなかった私の足下に、苦しみの極みを見、家族や愛する人々を想いながら息絶えた兵士たちの遺骨がある。それを私は踏んでいる。身体中を戦慄が走った。小刻みに身体が震えはじめた。その震えは次第に大きくなり、立っていることがやっとだった。
 そんな私に無文老師は「経を誦(よ)め」と言われた。どのような状態でも随行僧の役目を果たさねばならないと思い、震える声でお経を誦みはじめた。そのときだった。私の後ろでKさんが泣き出し、それは次第に鳴咽から号泣に変わり、そしてKさんはそのまま泥水に身を屈し、水面を思い切り叩きながら泣き崩れたのである。
 Kさんの夫は結婚後3カ月で出征した。すでにそのとき、Kさんのお腹には新しい生命が宿っていた。夫がビアク島で戦死したという公報を受けたのは、子どもが産まれた直後だった。この洞窟の遺骨の中に33年前に出征した夫がいる。回想の中でしか会うことができなかった夫に、いまめぐり合った。しかもすさまじい死が訪れたであろう現場で……。そのリアリティは想像を絶する。それとともに、戦後をひとりで生き抜いてきた苦労が、一気に脳裏に映し出されたのかもしれない。Kさんは泥水の中を転げ回り、辺りかまわず大声をあげて泣いた。その号泣を聞きながらお経を誦むことが、私にはできなかった。無文老師に「しっかり誦め」と促されても誦めなかった。どうしようもなかった。

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 当時、私は専門道場での修行を一応終え、神宮寺に帰り副住職となっていた。檀家の葬儀や法事を勤める毎日ではあったから、人間の死やそれに伴う悲しみの場には何度も立ち会っていた。しかし、そこに切迫したいのちの最期を感じることはなかった。人の死に立ち会い、身体が震え、涙があふれるような経験をしたことはなかった。
 私の前で死者はきれいに死化粧をほどこされ、一言も恨みごとは言わなかった。遺族は本当の悲しみをぶつけてはこなかった。たとえぶつけられたとしても、当時の私では何の対応もできなかったであろう。死者やそれを取り巻く遺族と坊さんの関係は、そのようなものだ。
 死者が死化粧をほどこされる前、つまりいのちの最終段階に訪れる本人の痛み、苦しみ、みじめさ、寂しさ、恐怖、不安、不条理感、不平等感、そしてそれを見る家族の悲しみや葛藤など、坊さんはほとんど知らない。知ろうとも思わない。坊さんの出番は、そういったすさまじいまでの死に至る過程を経た後にある。
 ビアク島の兵士の遺骨に触れ、Kさんの号泣を聞き、私は死後のセレモニーとしてしか死者たちに向き合ってはいなかったことを恥じた。何軒もの葬儀を行うためには、それらをセレモニーと割り切る必要があった。死の実相を見ず、死に伴って生じる面倒なかかわりを拒否し、死とのかかわりを葬儀場だけに限定し、もっともらしく引導を渡し、経を誦む……そういう割り切り方を恥じたのだ。死の重量感は膨大なものであり、そこから多くの問題が派生する。私はその間題解決への道を自ら閉ざし、すべての死から意識して逃げていた。
 しかしこの暗い洞窟の中で、苦しみもがき、家族や愛する人たちのことを想い嘆いた後、誰からの支援もなく殺されていくしかなかった人々の遺骨に触れたとき、遺族の慟哭や叫び声を感じたとき、逃げられない自分を強く意識した。私が踏んだ兵士たちの遺骨は足元から「お前は本当に宗教者なのか」と強く私に問いかけ、Kさんの号泣は、私がいままで坊さんとしてやるべきことをやってこなかったことへの強烈な責めとして迫ってきた。
 私がいままで育った環境の中で自分が思い込んでいた「私の仏教」が、死者たちによって完膚なきまでに叩きつぶされるのを感じた。その思い込みとそれによる怠惰な生き方に対して、亡くなった無数の兵士たちは引導を渡してくれたのである。「苦」の現場は限りなくある。
「苦」の現場に身体をねじ込め、そして「苦」を真正面から見るのだ、と。そうすれば坊さんとは何をする人なのか、寺とは何をする場所なのか、そしていのちとのかかわりをどうとるか誦が必ずわかってくる、と。

現状把握と問題点
 「死後」のみにかかわる仏教
  いつのまにか仏教は「死後」に専一にかかわるものとなり「生」の部分への貢献を抛棄してしまった。
 「死にかけて」いた病院−−その蘇り
  およそ30年前には病院も死にかけていた。信州の田舎の病院が地域医療という切り口から劇的に変えていった。
 「死にかけて」いた寺−−限りなく瀕死へ
  一方、寺は限りなく瀕死へ向かっている。葬式仏教が葬式までも葬儀社が取り上げようとしている。
 「世襲」−−日本仏教への問い
  本来の「戒」が失われている。
  寺が家庭になっているということは、そもそも仏教本来の「戒」が失われていることを意味する。
  日本の坊さんたちが本来の仏教を学び、理解し、戒律に基づいた生活をし、宗教者として自信を持って仏教を社会に展開するという状況からは程遠い。

第4章 寺よ、変われ
 どういう場合に寺が変わり、どういう場合に寺が変わらないかを豊富な実例で紹介しています。

第5章 葬儀が変われば、寺は変わる
 葬儀のやり方を変えることにより、寺が変わってゆくことを、いろいろな場面で説明しています。

エピローグ――寺が抱えている問題点をまとめています。そして意識を変え、遺志と覚悟を強めることで、坊さんの行動が変わり、寺が変わるとしめくくっています。

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5. 著者に会いたい
寺よ、変われ 高橋 卓志さん(60) 「苦」と向き合う拠点たれ
 現代社会に充満する「苦」の現場に伝統仏教がかかわらないのなら、存在価値は無く、消滅に向かう――。
 こう言い放つ本書を読めば、ドキリとする寺院関係者は多いはずだ。かくいう私(記者)もその一人。寺の長男に生まれ、僧籍も持つ。本書が批判する現状は、私自身このままではいけないと思ってきたことだからだ。
 著者が住職を務める長野県松本市にある神宮寺(臨済宗)を訪ねた。
 「いまのままでは、坊さんの役割なんかないとされますよ」
 執筆を後押ししたのは、そんな危機感だったという。「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されるように、檀家(だんか)制度に安住し、形式化した葬儀・法要をするだけの坊さん。だがいまや、その葬式仏教すら危うい。人口減少で檀家が減る一方、宗教観の変容から葬式をせず火葬のみで送る「直葬」なども増えている。
 本には、自身の歩みも書いた。「若い坊さんが気づき、変わる一歩を踏み出すきっかけになれば」と思ったからだ。
 大学卒業後、世襲の寺に戻った。転機は29歳の時。ニューギニアのビアク島で戦没者の慰霊に立ち会い、最期に訪れたであろう苦しみ、痛み、不条理に圧倒され、「苦」を真正面から見ることを教えられた。以来30年間、寺を拠点にチェルノブイリ原発事故の被爆(ひばく)者やタイのHIV感染者らへの支援のほか、地域でのターミナルケアや高齢者ケアなど「いのちの汀(みぎわ)」で活動を続けてきた。
 見えてきたのは「世の中には、星の数ほど苦しみがある」という事実だった。そして、さまざまな「苦」と向き合い、ともに苦しみ(共苦)、緩和し、消滅に近づけていく。それが坊さんの役目だと考えるようになった。
 「生老病死すべてにかかわれる拠点はお寺以外ない。コンビニの倍もある8万軒以上のお寺が変われば、社会のありようも変わるはずです」
 寺は、今こそ変わらねばならない。
(岩波新書・819円) 文と写真・久保智祥
(出典 朝日新聞 2009.7.12)

6. 著者紹介
 高橋卓志(たかはしたくし)
1948年、長野県に生まれる。龍谷大学文学部卒、同大学院東洋史学科中退。海清寺(兵庫県西宮市)専門道場で禅修行の後、76年、神宮寺(臨済宗、長野県松本市)副住職、90年、住職。現在、ケアタウン浅間温泉代表理事、龍谷大学社会学部客員教授、東京大学大学院講師なども務める。著書に『チェルノブイリの子どもたち』(岩波ブックレット)、『現代いのちの用語辞典』(水書坊)、『奔僧記』(信濃毎日新聞社)、『生き方のコツ 死に方の選択』(共著、集英社文庫)ほか。

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7. 読後感
 キリスト教などとくらべると、仏教は何か停滞していると感じます。オウム真理教など、若い人は満たされないものを感じているのでしょうが、従来の宗教が対応できないのです。著者の高橋さんも、世襲の坊さんだった方が南方の島で強烈な体験をしたことにより、生き方が変わったのだと思います。新しい時代に合った変革を目指す高橋さんのような方が増えれば、仏教も少しずつ変わって行くでしょう。檀家との、そして地元の方々との交流が、皆の満足できる仏教へと変えて行くでしょう。

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[Last updated 10/31/2009]