ウイリアム・モリスの楽園へ

  目 次

1. まえおき
2. 概 要
3. 本の目次
4. 内 容
5. 著者紹介
6. この本を読んで


南川三治郎著
発行所 (株)世界文化社

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1.まえおき
 今年(2009年)3月「生活と芸術−アーツ&クラフツ」展を見に行きました。これは英国のウイリアム・モリスが中心になって提唱した運動が、日本では民芸という形で、どのように展開されたかを展示したものです。2004年の秋には「ウイリアム・モリスとアーツ&クラフツ」展が大丸ミュージアム・東京で開かれ、これにも行きました。
 2004年8月に英国を旅したときは、モリスに縁の深いコッツウォルズを訪れていますし、最終日の朝、空港に向かう前の僅かな時間に、泊まったホテル近くにあるヴィクトリア&アルパート美術館の前を散歩しています。これらの経験からウイリアム・モリスの生涯を知りたくなり、この本を読みました。

2. 概 要(本の帯より)
 ヴィクトリア時代から現代まで、卓越した才能で根強い人気の芸術家、アーツ&クラフツ運動の提唱者、ウイリアム・モリスの軌跡を辿ります。ロンドン、オックスフォード、コッツウォルズ、ケルムスコット……生活芸術の巨匠を追った英国紀行です。
 石榴(ざくろ)、薔薇(ばら)、チューリップなど植物をモチーフにあしらった、壁紙やカーテンなどで一世を風靡(ふうび)し、今も人気の高いウイリアム・モリス。生活の細部まで薫り高い芸術で満たすことを夢みたモリスの生涯。今も息遣いが聞こえる、家族と過ごした思いでの深い家々。デザインの理想を色濃く残した建物。花と自然を愛した芸術家を追って英国を旅します。

3. 本の目次
第1章 幼年期からオックスフォード時代へ
    美しい田園風景のなかで育まれた才能の源             10
    失望と新たなスタートを生んだ夢見る尖塔、オックスフォード     14

第2章 ラファエル前派との出会い
    ロセッティとの出会いと壁画制作の失敗                18
    運命の女性、ジェイン・バーデンとの出会い、そして結婚        22

第3章 美しきレッド・ハウス
    幸福な生活と才能の開花 レッド・ハウスでの5年間         28
    モリスの才能を世に知らしめたV&A美術館での仕事         42
    傑出した才能が集ったモリス・マーシャル・フォークナー商会    46

第4章 蜂蜜色のコッツウォルズ
    モリスが魅せられたコッツウォルズ地方の自然とライムストーン  50
    長い歴史に彩られた麗しきコッツウォルズ               54
    モリスの心の拠りどころとなったケルムスコット・マナー         58

第5章 美の小国ケルムスコット・マナー
    美の小国ケルムスコット・マナー                     62
    一人の女と二人の男の奇妙な関係                   68

第6章 ケルムスコット・ハウス
    ケルムスコット・ハウスへの転居とカーペット制作の開始       82
    価格にこだわらず高品質な作品を目指す                86
    晩年の業績である新しいタイプ・フェイスの製作             90
    理想の作品を作るために膨大な労力から生まれた新しい活字   94
    モリスの美意識が結集された『ジェフリー・チョーサー作品集』    98
    今も愛される壁紙とテキスタイルはモリス・デザインの象徴     102
    「死因はウィリアム・モリス」寂しかった旅立ち             106

第7章 ウィリアム・モリス・コレクション
   ヴィクトリア&アルパート美術館に残る膨大なコレクション       110

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4. 内 容
第1章 幼年期からオックスフォード時代へ
 石榴(ざくろ)、薔薇(ばら)、チューリップなど植物のモチーフをあしらった壁紙やカーテンなどで1世を風靡(ふうび)し、今も根強い人気を保ち続けているウィリアム・モリス。生活の細部まで薫り高い芸術で満たすことを夢見たモリスのたぐいまれな行動力と多彩な人間模様は、起伏に富んでいた。
 家族と過ごした思い出深い家々、デザインの理想を色濃く残す建物は、今もモリスの息遣いが聞こえてくるようであった。
 ウィリアム・モリスは1834年、ロンドン近郊のウォルサムストウの裕福な家庭の9人の子供の長男として生まれた。オックスフォード大学在学中にイギリスの美術および社会批評家ジョン・ラスキンを知り、影響を受けて中世に憧れた。
 そして芸術に目覚め、卒業後、建築や絵画を目指したが、その頃に知り合った画家のロセッティの勧めで絵画に専念するようになった。しかし、すぐに装飾芸術に自分の才能を見出して転身。時を同じくして、後にラファエル前派の画家たちのモデルとなるジェイン・バーデンに出会って恋に落ち、結婚した。モリス25歳の時のことである。
 2人は新居「レッド・ハウス」を建てて移り住み、1871年にはコッツウォルズ地方の村に建つ石造りの舘(やかた)、「ケルムスコット・マナー」を週末の隠遁生活の場として借りた。
 1861年親友バーン=ジョーンズら仲間と一緒に室内装飾から家具のデザインまでを手掛ける「モリス・マーシャル・フォークナー商会」の発足をきっかけに、壁紙、刺繍、タペストリー、テキスタイル(織物)、ステンドグラス、家具などのデザイン、装飾、装丁、印刷、詩作、著述と、あらゆる生活芸術に傑出した才能を見せた。
 特にモリスの才能が発揮されたのが植物紋様のデザインだ。そのモチーフとなったのが庭や野に咲く草花であった。野薔薇、チューリップ、雛菊、すいかずら、アネモネ、柳……。モリスはそれらを身近に見るうちに、自然の美しさに惹(ひ)き込まれてしまった。
 生活に必要なものこそ美しくあるべきだ、と考えたモリス。そのモリスが理想としたのが中世の職人たちの手仕事によって生まれる美しい生活空間の再現であった。モリスのデザインは多くの人を惹きつけ、手工芸の革新を通して芸術を再生させるという「アーツ・アンド・クラフツ運動」となって、世界中に広まった。

美しい田園風景のなかで育まれた才能の源
 モリスの少年時代、生まれたエセックス州ウォルサムストウにはエッピングの森が広がり、モリスはこの森の奥深くで野生する鹿や小さな動物と遊び、森や野に咲く草花を愛し遊び回っていたという。幼年時代に清く澄んだ空気のなかで育んだ心の印象がその後のモリスのデザインの主流を占める草花や小鳥に開花していった。
 モリスが6歳の時、一家はウッドフォード・ホールに引っ越した。広大な領地と周囲の田園地帯は幼いモリスにとって格好の遊び場となり、この感性豊かな少年の想像力を育んだ。
 モリス少年が弱冠7歳までに読んだという本のなかで注目に値するのは、「アラビアン・ナイト」やサー・ウオルター・スコットの一連の歴史小説だ。この読書体験がモリス少年の心の中に「中世趣味」といえる騎士道精神を植えつけたのに相違ない。

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失望と新たなスタートを生んだ夢見る尖塔、オックスフォード
 1853年、オックスフォード大学のエクセター・カレッジに入学したモリス青年は、その前年の入学試験の際、偶然隣の席に座った、エドワード・バーン=ジョーンズと意気投合し、終生の盟友となった。
 モリスに芸術、とりわけ建築の魅力を教えたのはラスキンで、その著書「ヴェニスの石」第2巻はモリスの生涯に決定的な影響を与え、第6章「ゴシックの本質」はモリスの生涯にわたって深い影響を与えた。
 モリスとバーン=ジョーンズが理想としたのは中世のゴシック建築に代表される職人たちの手仕事だった。
 モリスは卒業後、建築の修行を始めたが、バーン=ジョーンズの絵の師匠ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティに詩才をみとめられ、弟子入りした。

第2章 ラファエル前派との出会い
ロセッティとの出会いと壁画制作の失敗
 ロセッティはイタリア亡命貴族の息子で、ラファエル前派の中心的詩人・画家として力の盛りにあった。
 オックスフォード大学のユニオン・ディベーティング・ホールの内装を請け負った。モリスもバーン=ジョーンズらと共に参加した。しかしフレスコ画技法については素人で、失敗に終わった。モリスは独り担当部分の「イゾルデの悲恋」を仕上げ、天井と梁の部分に植物模様を施した。プロジェクトは失敗したが、共同製作の喜びを知った。
 また彼が信じるところの「絶世の美女」17歳のジェイン・バーデンと出会った。

運命の女性、ジェイン・バーデンとの出会い、そして結婚
 1857年10月のある日、ロセッティとバーン=ジョーンズは、オックスフォードの小劇場で芝居見物をしていた。その観客の中から、エキゾチックな少女を見つけ、絵のモデルになってほしいと頼み込んだ。最初、ロセッティが恋をしたが他に恋人がいるのでためらっているうちに、モリスが名のりを上げ、1859年4月25日、モリスの親族が誰も出席せずに、オックスフォードのセント・マイケル教会で、式を挙げた。
 新妻ジェインはお針子として、夫のデザインする掛け布やアップリケをするようにになる。

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第3章 美しきレッド・ハウス
幸福な生活と才能の開花 レッド・ハウスでの5年間
 ロンドンの中心街の喧喋(けんそう)を離れ、テムズ川に寄り添うように南東に下り、田園風景も美しいケント州ベクスリーヒースまでは車で約1時間。クレイ川とグレンス川の谷に近い、閑静な住宅地にひつそりと佇むように建つレッド・ハウス。赤レンガ造りで急勾配の赤瓦の屋根が美しいこの家はロマンティックで、お伽の国の館(やかた)のよう。今はナショナル・トラストが管理する「歴史的遺産(プロパティ)」となつている。
 モリスが新婚生活を送る場所としてここを選んだのは、そこが果樹園に囲まれた美しい場所であっただけではなく、中世時代、ロンドンから聖地へと向かう巡礼の道の途上であり、その歴史的な魅力も大きかったのだろう。
 設計は若き建築家フィリップ・ウェッブが担当し、モリスの友人であり芸術家のロセッティやバーン=ジョーンズなど友人たちが総出で内装に協力した"珠玉の建築″。それがここレッド・ハウスだ。
 一歩中に入ると壁紙やソファー、作り付けの家具などが、今でも当時の面影を残して置かれ、モリスとそのグループの芸術家が理想とした中世風のしっとりとした雰囲気と薫りが今もそこかしこに漂う。
 レッド・ハウスの前に開ける前庭は植物を愛したモリスらしく、さまざまな草花で飾られている。また、林檎、さくらんぼ、梨、スモモ、マルメロ、トネリコ、イチイ、ハシバミ、柊(ひいらぎ)など今も当時の果樹や樹木が、草花がそのまま残って「建物にまとう衣服のよう」に家と調和している。
 モリス一家がここに住んだのは、1860年〜1865年の5年間だけであったが、長女ジェニー、次女メイと2人の娘に恵まれ、週末になると友人たちが代わる代わる訪れ、ピアノを囲んで歌を歌ったり、花咲き乱れる庭でアフタヌーン・ティーを楽しんだりした。モリスが最も幸福だった時期で、今にもこの庭から人々の楽しく笑う声が聞こえてくるようだ。
 レッド・ハウスは生活に必要なものこそ美しくあるべきだ、と考えたモリスが理想とした、中世の職人たちの手仕事によって生まれる美しい生活空間の再現への実験であつた。またこの時期は、モリスが装飾芸術へのマルチな才能を一斉に開花させた時でもあった。

モリスの才能を世に知らしめたV&A美術館での仕事
 V&Aの愛称で知られるヴィクトリア&アルパート美術館。ヴィクトリア女王と夫君アルパート公の名を冠するこの美術館は近代デザインの思想を促進、浸透させるという意図のもとに1852年に創立され、世界一の規模を誇っている。
 ロンドンのサウス・ケンジントンに位置しているヴィクトリア朝のこのミュージアムは、あらゆる時代のあらゆる国のあらゆる物がコレクションされ、ショーケースの中だけでなく、壁や天井、床にまで展示されている。
 若き日のモリスがテキスタイルの歴史や様式、技術の研究のため日参したのもこの美術館で、「いま、生きている人の誰にも負けないくらいよく活用した」と、モリス自身が語ったほど。モリスが所蔵品から吸収した知識や感動は、後のモリスのデザインに深く影響を及ぼしたといっても過言ではないだろう。

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 1866年、モリスは新進の装飾家としてメキメキ頭角をあらわしていた。モリス・マーシャル・フォークナー商会は、このサウス・ケンジントン美術館(当時の名称)からグリーン・ダイニング・ルームの装飾を委嘱された。
 美術館の初代館長サー・ヘンリー・コールは、1862年のロンドンの万国博覧会でモリス・マーシャル・フォークナー商会の出品作を見て、若き無名の装飾芸術家ウィリアム・モリスとその制作集団の非凡な才能をいち早く認め、折から建築中の美術館の中に作る世界最初の食堂のうち、一等食堂の装飾に抜擢したのだった。
 思いがけず大きな仕事を手にしたモリスは、全身全霊をかけてこの仕事に取り組んだ。モリスとウエッブ合作の幾何学的な植物模様をあしらった天井。バーン=ジョーンズによるステンドグラスの窓や彩色パネルのニンフなど、綺羅星のごとく輝くモリス・マーシャル・フォークナー商会のアーティストたちのコラボレーションによるデザインは斬新で素晴らしく、新しいもの好きのロンドンっ子を魅了した。
 そして、サウス・ケンジントン美術館の一等食堂は、ただちにロンドンの芸術家やセレブリティの間で人気の場となったのである。作家モンキュール・コンウェイは、1882年に「心地のよく、こぢんまりとして、美術館の真ん中で食事ができる」希少な場所として書いている。
 建てられた当時は一等食堂として利用されたが、現在では限られたVIPのイヴェント(エリザベス女王の晩餐会、昭和天皇訪英の際のレセプション)などの時だけに百年前の格式と伝統を誇りながら利用されている。
 私の取材時に美術館内を案内して下さったのはV&Aエンタープライズのアメリア嬢。まずは軽食堂「レフレッシュメント・ルーム」へ。壁面装飾に使用した漆喰の壁がグリーンに塗られたことからグリーン・ダイニング・ルーム(別名ウィリアム・モリスのダイニング・ルーム)と呼ばれている。なんと美しい! なんと夢のある食堂だろう。いや、食堂というには美しすぎる。ここで食事をいただいて、ギャラリーを鑑賞できたらどんなに素晴らしいことか!
 そしてモリスは1876年からその死の1896年まで、サウス・ケンジントン美術館の鑑定人(エグザミナー)として働き、タペストリー購入の相談役であった。
 この時期のモリスのこの美術館所蔵の、多くの傑作作品の研究が、彼自身のデザインに影響を与えたことは想像に難くない。アメリア嬢が「サンジローさん、モリスがV&Aに購入を勧めたペルシャ絨毯があるのですが興味あります?」とウインク。私は即座に「勿論」。展示されている42室中近東ギャラリーに急いだ。
 部屋に入って眼前に広がる大きく美しいアラピック模様に私は思わず息をのんでしまった。北イランのアルダビール寺院で使われていた世界最大で豪華な〈アルダビール・カーペット〉が壁一面に飾られているではないか! その大きさは長さ10メートル、幅5.3メートルにも及ぶという。値段を聞いてまた驚いた。当時としては驚くべき大金2000ポンドをV&Aは支払ったというのだ。こんな高価な買い物を勧めたモリスはどんな神経の持ち主だったのであろうか。

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傑出した才能が集ったモリス・マーシャル・フォークナー商会
 1961年4月11日、モリス27歳のとき、「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を設立。ロンドンのレッド・ライオン・スクエア8番地に工房とショールームを構えた。
 取り扱ったのは壁紙、刺繍、タペストリー、テキスタイル、ステンドグラス、宝石、家具などのデザインと制作、装飾、装丁、印刷、詩作、著述。フォークナー以外の全員はすべての制作物についてデザインを提供し、宝石は1階の宝石屋に、家具は地方の指物師に、刺繍は家族や友人たちに作らせた。モリスは壁紙をデザインし、平面模様のデザイナーとしての才能を自分に見出した。
 ゴシック・リヴァイヴリストの建築家たちが商会初期の重要なパトロンとなり、教会用のステンドグラス、祭壇、壁画および屋根の装飾などが発注された。モリス・マーシャル・フォークナー商会の基礎は固まり、1965年、クイーンズ・スクエアのもっと広い社屋に移ることになった。

第4章 蜂蜜色のコッツウォルズ
モリスが魅せられたコッツウォルズ地方の自然とライムストーン
 絡み合った草花が紡ぎ出す不思議の花園。壁紙やファブリックに植物の温もりを繊細に表現したウィリアム・モリス。彼のデザインの源はコッツウォルズ地方の自然の中にあるといわれている。ロンドンから汽車に乗り、約1時間半でこの地方に着く。点在する村々の建物は、この地方特有の蜂蜜色のライムストーン(石灰石)で建てられている。
 小さい村にはそれぞれ特徴があって、使ってある石や、石組み、屋根の葺き方、壁を覆い尽くす蔦や草花、端正な格子窓、自然石をうまく積み上げた垣根などによって違ってくる。

長い歴史に彩られた麗しきコッツウォルズ
 「絵画のように美しい」と形容され、なだらかな坂道に藁葺き屋根や色とりどりの庭も美しいカッスル・クーム、中世からロンドンに向かう宿場町として栄えてきたブロードウエイなど暖かさのある家並みである。
 コッツウォルズの村々はとても小さいので、30分もあれば一つの村を見て回れる。

モリスの心の拠りどころとなったケルムスコット・マナー
 モリスは画家で友人のロセッティとともに、コッツウォルズ丘陵の南端にあるバイブリーに程近い小さな村、ケルムスコットに別荘を買った。ライムストーン造りのファームハウスで、ケルムスコット・マナーと命名した。
 この家は、当時ロセッティの絵のミューズとされたモリスの妻・ジェインがこの画家と親密さを深めていった場所といわれている。モリスが留守の間、ジェインと娘のジェニーとメイ、それにロセッティが夏のほとんどを一緒に過ごしていた。
 モリスにとって、ここは心の拠りどころで、可能な限り訪れては趣味の釣りに耽ったり庭園や周囲の風景を満喫した。

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第5章 美の小国ケルムスコット・マナー
美の小国ケルムスコット・マナー
 腰をかがめて人が一人入れる小さな朝顔口から館(やかた)の中に入ると、そこはさながらモリス・ミュージアム。作りつけの家具類やレッド・ハウスから持ってきたモリスお気に入りの家具、壁にかかったタペストリー……etc,置かれたものすべてからモリスのメッセージが伝わってくるようだ。
 1階の左手奥の部屋の奥まった一角に、モリスが23歳の時、唯一自分で刺した刺繍<If I Can>があった。フランドルの画家ヤン・エイクの影響を受け、彼の言葉「もし私にできるなら」を座右の銘にしていたモリスはその言葉を最初の作品に刺し込んだ。そして、中世教会に伝わる刺繍をほどいて学んだテクニックの成果が、果物の木の間を鳥が飛ぶ様子と"If I Can"の文字との連続模様となって、布地に表現されている。
 次の部屋に移動の途中の廊下に、厚い絹のビロード地に布から切りとられた女性像「聖カテリーナ」があった。
 テムズ川沿いのケルムスコット村での生活は、モリスに尽きることのない創造へのインスピレーションを与えてくれた。ミヤマガラス、スノードロップ、林檎の花、金鳳花(きんぽうげ)、薔薇の実……それらは生き生きと描写され、作品の意匠となった。

一人の女と二人の男の奇妙な関係
 モリスはジェインとロセッティの恋愛に介入することはせず、逆に場所を提供して彼らがともに過ごすことを可能にしてやった。非常に奇妙な関係を保持しながら、その"不実"に怒り、しかし何もできない自分の"ふがいなさ"に苦悩したモリスであったが、逆にそのことがバネになって、あの素晴らしいデザインが生まれたのではないだろうか。

第6章 ケルムスコット・ハウス
ケルムスコット・ハウスへの転居とカーペット制作の開始
 モリスはすでに41歳、デザイナー、デコレイターとしての経験を15年積み、詩人としての名声(『ジェイスンの死』1867年、『地上楽園』1868〜70年で、詩人としての地位を確立していた)を持っており、そのデザイン活動は最盛期に向かっていた。
 時を同じくしてモリス家の生活に大きな変化がもたらされた。モリスの心痛の種であったジェインとロセッティの関係が終止符を打ったのを機会に、モリスはロセッティとの仕事仲間であり友人としての関係を断ち切った。合わせてギクシャクした亀裂が生じていた他のモリス・マーシャル・フォークナー商会の共同経営者とも袂(たもと)を分かち、1875年、「モリス商会」と改称しモリスは単独経営に乗り出した。
 心配の種が和らいだモリスは十分力を出し切れる体制となった。モリスはデザインすることと、製造技術の研究、そして商会と工房の運営に忙殺された。

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 1873〜76年にかけてのモリスのデザインは、初期の壁紙(雛菊[デイジー])に見られる新鮮な自然主義(ナチュラリズム)と巧みに繰り返して行われる単純明快な構図とあいまって、モリス・ファンのプチ・ブルジョワジーたちを魅了した。それと同時に、モリスは染色、織物、タペストリーの研究と製作に取りかかっていた。
 モリスの足跡を辿る巡礼者ならば、ぜひ訪ねてみたいところがある。ロンドンの西部のハマースミスで、ロンドンの中心街からヒースロー空港に向かう途中のテムズ川沿いにある、モリスの終(つい)の住処(すみか)だ。モリス夫妻は、1872年、レッド・ハウスを売ってクィーン・スクェアからホリントン・ハウスに移り住んでいた。そして、1878年、ホリントン・ハウスからハマースミスのテムズ川河畔に、"隠居所"と呼ばれていたジョージ王朝風の五階建ての家を借りて移り住んだ。モリスはコッツウォルズにある最愛の田舎家にちなんで「ケルムスコット・ハウス」と名づけた。テムズ川に面したこのケルムスコット・ハウスからケルムスコット・マナーヘはテムズの流れに乗って容易に移動できた。田舎家の敷地にはテムズ川の支流が流れ込んでいたからである。二つの家を船て行き来できることをモリスはいたく気に入っていた。
 ここで暮らすようになって間もなく、モリスは織り物の制作に着手した。一階の寝室にタペストリーの織機を、コーチ・ハウス(馬小屋)にはカーペットの織機を備え付けた。そして自ら織機を操ってカーペットの試作さえしたという。驚くべき行動力! である。刺繍も織り物も自分でまず試し、その実体験の中から、デザインを起こした。モリスはまさに完璧主義者であった。
 ハマースミスで織られた小さなラグ(布切れ)やカーペットは"ハマースミス・ラグ"の名で知られている。縁の部分にハンマーと横線がトレードマークとして織り込まれている。ハンマーはハマースミスを、横線はテムズ川を表しているのだという。

価格にこだわらず高品質な作品を目指す
 モリスは染色も自分で行った。色に自身を持つと、一度中断していたプリント地の染めを直ちに再開した。
 手織りのハマースミス・カーペットは極めて高価であった。しかし高い品質とデザインが評価されていたので、注文が途絶えることはなかった。
 そこで1881年、手狭になったクイーン・スクエアの工房を引き払い、ロンドンの南、ウォンドル川の岸辺にある広いマートン・アビイに工房が移され、数々のヒット商品を製作することが可能になった。

晩年の業績である新しいタイプ・フェイスの製作
 モリスのブック・デザインに対する興味は、まだオックスフォードの学生であったとき、ボドリヤン・ライブラリーで中世の彩飾写本を発見したことから始まっており、モリスは印刷本より手稿本に興味を持っていた。
 晩年になって(1891年)モリスは新たに印刷を手掛けるようになった。テムズ川沿いの自宅から歩いて2分のところに印刷工房「ケルムスコット・プレス」を立ち上げ、新しい活字の字面をデザインし、「ユートピア便り」や「ジェフリー・チョーサー作品集」を出版した。

理想の作品を作るために膨大な労力から生まれた新しい活字
 独自の書体を持ったモリスの活字は、ゴシック趣味を抜けて簡素かつ染みでりながら、美的で見栄えのするような活字を作ることであった。モリスはヴェネツィアで15世紀に印刷された本の中から参考になるローマン書体の活字を見出し、この活字を写真に撮り、これに拡大や縮小の作業を繰り返し続け、試行錯誤の入念な研究を重ねた末に、自分自身の活字を編み出した。

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モリスの美意識が結集された『ジェフリー・チョーサー作品集』
 ケルムスコット・プレス。それはモリスが理想の書物を求めて作ったプライヴェートな印刷工房。本作りのうえでモリスが最も心を砕いたのは読みやすく、かつ美意識に満ちた装飾文字や縁取りのデザインであった。
 そのためにモリスは活字を3種類デザインし、次に活字と紙のバランスを考慮した。書物の紙は手漉きの亜麻(リネン)と決めて、中世騎士道精神から培ったモリス独特の閑静で美しい装飾の素晴らしい本が次々と刊行され、最後は「ジェフリー・チョーサー作品集」であった。
 これらの徹底的にモリスの美学を貫いた華麗で見事な装飾稿本は好事家の注目の的となり、発行前から予約で、売り切れてしまう有様であった。ケルムスコット・プレスでの仕事はもうモリスだけの楽しみではなくなり、多くの人々がモリスの創る本を待ち望んだという。

今も愛される壁紙とテキスタイルはモリス・デザインの象徴
 モリスの最も特徴的な仕事に、壁紙のデザインがある。この装飾の分野で、絵画では発揮できなかったモリスの才能が花開いた。モリスのデザインした花や鳥の図柄は、当時の商品に比べて古典的にさえ見えた。草花などにモチーフをとったデザインは、人間的に温かさが感じられた。
 モリスが1862年から亡くなる1896年までにデザインした壁紙は全部で41点で、最初に発表した〈トレリス(格子垣)〉に比べ、後のデザインはテクニックも洗練されて無限の広がりを見せるようになった。
 モリス・マーシャル・フォークナー商会は、壁紙のデザインで成功するや、1873年、室内装飾用のチンツ(木綿プリント 更紗[さらさ])のデザインに取りかかった。染色業界に物足りなさを感じたモリスは自ら試作して、たちまち当時の人々を魅了した。

「死因はウィリアム・モリス」 寂しかった旅立ち
 ウィリアム・モリスは、様々な人物へと分身転換を、素早くこともなげに行ったスーパー・マルチ人間であった。デザイナー、アーティスト、詩人、政治活動家、評論家、エコロジストなどいろいろな顔を持ち、何人もの異なるモリスが一人の体内で生きていた。
 1896年8月にノルウェーへの療養旅行から戻った時はすでに、愛するケルムスコット・マナーに行くこともできないほど病んでいた。モリスは過労でその力を奪われるまではデザイン活動も社会主義活動も止めることはなかった。
 ウィリアム・モリスは10月3日、ハマースミスの自宅、ケルムスコット・ハウスで62年の生涯を静かに閉じた。死因について医者はこともなげに「死因はウィリアム・モリス」と診断を下したという逸話も残っている。

第7章 ウィリアム・モリス・コレクション
ヴィクトリア&アルパート美術館に残る膨大なコレクション
 田園を愛したモリス。その二つの家とハマースミスのケルムスコット・ハウスを巡った私はロンドンに戻り、彼の美の遺産が膨大に収蔵されている、かの有名なV&A美術館を再び訪れた。
 まずは正面玄関を入って左手奥の2階にあるブリティッシュ・ギャラリーに行ってみよう。ここにはモリス初期のタイル〈白鳥〉(眠れる美女)、ステンドグラス〈ルネ王の蜜月〉、壁紙〈トレリス(格子垣)〉〈柳の枝〉、チンツ〈苺泥棒〉(バラ)、カーペット〈ブラーズウッド〉からレッド・ハウスに置かれていた家具〈聖ジョージのキャビネット〉、タペストリー〈果樹園(または〈四季))〉〈天使〉などモリスの残した代表的な作品群が分かりやすくコンパクトに展示され、一目でモリスの素晴らしい仕事ぶりが理解できた。
 さらに壁紙やテキスタイルの図案を見たいと思い、インフォーメーションに行って聞くと「壁紙だったらプリント・ルームで、テキスタイル関係であればテキスタイル・ルームにありますよ」と、丁寧に教えてくれる。さっそく案内してもらってプリント・ルームに行ってみると、ずらりと飾り棚が並んでいる。壁紙見本はこの中に要領よく整理分類されて入っており、1パターン、1パターン引き出して見ていると、あっというまに時間がたってしまった。
 そして、さらにもっと奥深くモリスの業績を探求したければ、前もって閲覧申請書など手続きをすれば、いくらでも手にとってモリスの作品を見ることができるという。(註:展示作品は随時入れ替えられる)

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[記念館など]
1. William Morris Galery
Lloid Park, Forest Road, London E17 4PP TEL: +44(0)20 8527 3782
地下鉄Walthamstow Central St.下車、徒歩10分
URL :http://www.lbwf.gov.uk/wmg/

2. Red House Lane, Bexleyheath, DA6 8JF
ロンドンCannon St.からBexleyheath St.まで鉄道で約30分 Bexleyheath St.より徒歩15分
問い合わせ TEL +44 (0) 1 494 755 588
URL :http://www.nationaltrust.org.uk/

3. Kelmscott Manor
Kelmscott, Lechlade, Gloucestershire GL7 3HJ
Swindon St.下車、車で24km
問い合わせ TEL +44 (0) 1 367 252486
e-mail: admin@kelmscottmanor.co.uk
URL :http://www.kelmscottmanor.co.uk/

4. Victoria & Albert Museum
Cromwell Road, South Kensington, London, SW7 2RL
地下鉄South Kensington St.下車、徒歩5分
問い合わせ TEL +44 (0) 20 7942 2000
URL :http://www.vam.ac.uk/

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5. 著者紹介
南川三治郎(Sanjiro Minamikawa)
 写真家。1945年三重県生まれ。東京写真大学卒業後、大宅壮一東京マスコミ塾・第1期出塾。パリを拠点にヨーロッパの"人と文化"に焦点を当て取材活動をするフォトグラフィック・ライター。著作に『アトリエの巨匠・100人』(新潮社)、『イコンの道』『皇妃工リザベート』『エカテリーナ』『図説・ウィーン世紀末散歩』『図説・クリムトとウィーン美術散歩』(河出書房新社)、『ヴェルサイユ宮殿』(黙出版)、『ヘルマン・ヘッセを旅する』『ゴッホを旅する』『モネの庭へ』(小社)など数多い。

6. この本を読んで
 日本での作品展を2度も見ましたが、作者のウイリアム・モリスについては、もう一つ経歴を知りませんでした。この本で作者の生涯については、ほぼ理解できました。活動内容が多岐にわたっていること、また作品と無関係には、もう一つ理解が不十分です。この記事を読んで興味を感じた方には、是非とも本を読んで、美しい作品に触れていただきたいと思います。
 再び訪英する機会かあれば、ヴィクトリア&アルパート美術館などを訪れてみたいと思っています。

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[Last updated 5/31/2009]