ゴッホ巡礼

  目 次

1. まえおき
2. 本の目次
3. 概 要
4. 著者紹介
5. この本を読んで
6. 参考図書


向田直幹・匠秀夫共著
発行所 株式会社新潮社

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1.まえおき
 私も日本人としてゴッホが大好きです。2005年の春に開かれたゴッホ展は観に行きましたし、アルルには2度、パリ近郊のオーヴェール・シュール・オワーズにも行きました。今では日本でもゴッホの絵が見られるようになりましたし、ゴッホは手紙を残しているので本人の絵に対する考え方もわかります。近く「ゴッホの手紙」を取り上げたいと思っていますが、その前にゴッホの一生と主な作品をおさらいしておきたいので、この本を取り上げました。
 ゴッホの描いた絵は、「73 Vincent's Colors(フィンセントの色)」にかなり収められています。足らない分や地図は「ゴッホ−絵と地図」に載せました。

2. 本の目次
 ゴッホへの旅  写真・向田直幹(文も) 野中昭夫 4
 生地ズンデルト 6
 画商修業 ハーグ/ロンドン/パリ 10
 教師志願 ラムズゲイト/アイズルワース 12
 伝道 ワム 14
 画家へ クエム/ブリュッセル 16
 エッテン 18
 ハーグ 20
 ドレンテ 22
 ヌエネン 24
 アントワープ 28
 パリ 30
 アルル 33
 サン・レミ 41
 パリ 54
 終焉 オーヴェール 58

 ゴッホと日本  匠秀夫 86
 コラム  ゴッホ作品を見るには 84
        ゴッホの宿再生計画  85

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3. 概 要
◎ ゴッホへの旅
 私がはじめてオーヴェール・シュル・オワーズを訪ねたのは、1966年5月のことだった。リラの花が香り、白いマロニエの花が咲いたり、四季を通じて美しいといわれるオーヴェールでも、とりわけ花咲き競う頃だった。同じ5月、1人の男が、ここを訪れ、2月余り後の7月27日、村はずれの丘で"自殺"を図った。1890年のことである。
 その男とは、フィンセント・ファン・ゴッホ。私は、子供の頃「ひまわり」の絵をみて以来、ゴッホにとりつかれ、その終焉の地に、行ってみたいと思い続けてきた。訪ねてみると当時は、現在ほど案内板などが整備されてなく、ゴッホの絵で親しんでいた町役場で教えてもらい、「ラ・メゾン・ド・ゴッホ」という名前のレストランに変わっていた宿屋から、彼の絵によって今や町のシンボルともなった教会、テオのと並んでいる墓所、"自殺"したとされる場所などを、時間のたつのも忘れて歩きまわった。この最初の訪問の後も、パリに在住していた私は、年に2、3度、オーヴェールを訪ねた。そのうち、ゴッホの"自殺"に疑問をいだくようになった。
 ゴッホが死んだ時、ポントワーズ地方のローカル紙『レコー・ポントワジアン』は、「オランダ人の画家フィンセント・ファン・ゴッホが、連発ピストルで自らを撃った。その事件は畑の中で起こった」と報じている。
 ピストル自殺といえば、当時でさえも異常な事件であった。しかも彼は精神異常を訴えて、この村の医師ポール・フェルディナン・ガッシェを頼ってやって来たのだ。その彼がどうしてピストルを持ち得たのだろうか。彼は自殺を図った次の日に調べに来た警官に対して、ピストルをどこに捨てたか、質問には一切答えず、何も知らないといっている。
 そのピストルの出どころについては二つの説がある。一つは、烏を撃ち殺すという口実のもとに宿屋のおやじ、ラヴーから数日前に借りていたものだという説。もう一つは『ゴホ書簡全集』の記録によるが、ポントワーズの銃器商ルブーフの店で買ったという説である。しかし現在でもそのピストルは見つかっていない。ピストルはどこに捨てられたのか、そのピストルは一体どういう種類のピストルであったのか。ある本によると、連発銃とだけ記録が残っているが‥‥‥。
 フィンセントは、この7月中旬にもてんかん性の精神障害を再発していた。もし宿屋のおやじがピストルを貸したのならば、なぜ精神異常者と目されている男にそんな凶器を持たせたのだろうか。
 以前から何度も異常なふるまいのあったような男に危険なピストルを簡単に持たせるなどとは、私にはとても信じられないことである。その非常識を思うと、フィンセントは、直接的には自殺を図ったのだが、自殺をするようにしむけられたのではないかという、素朴な疑問が、私の胸をよぎるのだった。
 その運命の日、1890年7月27日は日曜日。大変蒸し暑い日であったという。夕食の準備をしていた宿屋のおかみさん、ラヴー夫人はフィンセントの帰りが遅いのを心配していた。彼はいつも規則的に夕食の時間に戻ってきていた。ところが、この日は、ほかの同宿者たちが食事を終わったところへ、彼は脇腹に手を当てて帰ってきた。彼はわき目もふらず真っすぐ自分の屋根裏部屋へ上がって行くと、出てこなかった。心配したおやじが部屋を見に行くと、彼は血を流してベッドの上に横たわっていた。びっくりしたおやじは、町医者のマゼリーを呼びに行った。

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 医者は留守だった。そこで仕方なく、フィンセントが親しくしていた精神科医のガッシェを呼びに行った。もう助からないと見て取ったガッシェ医師は、パリにいる弟のテオに知らせようとフィンセントにいった。しかし彼は弟の住所を教えることをこばんだ。やむを得ずガッシェ医師は、同宿のオランダ人の絵描きヒルシッヒに頼んで弟が働いているパリの画廊まで手紙を持って行かせた。
 その間、フィンセントはガッシェ医師にパイプを取ってもらって、口にした。医師が帰った後も一晩中、パイプを手にしてベッドに横たわっていた。
 翌28日にパリから弟のテオが駆けつけて来た。その夜半、正確には29日午前1時半に、彼は屋根裏部屋のベッドの上で息を引き取った。
 この37歳で死んだ男の「死」を考えるため、その人生の足跡をたどる旅を20年以上、私はすることになった。

◎ 生地ズンデルト−死んだ兄の名を受けて[1853年3月〜64年9月]
 1853年3月30日、フィンセント・ファン・ゴッホは南オランダのベルギー国境にほど近いズンデルトという小さな町の牧師館で生まれた。父テオドルスはプロテスタントの牧師だった。
 フィンセントの生家も広場をはさんで町役場と向かい合っている。彼が死んだオーヴェールの宿屋の真ん前にも町役場があった。父が牧師をしていた小さな礼拝堂も近くにある。礼拝堂に隣接する墓地にフィンセント・ファン・ゴッホと刻まれた墓石がある。フィンセントが生まれるちょうど1年前に生まれた男児はフィンセント・ファン・ゴッホと命名されて間もなく死んだ。
 フィンセントには弟のテオを含めて5人の兄弟がいた。
 フィンセントは小学校を終えると、ズンデルトの北方20kmのゼーフェンベルヘンの寄宿学校に入学し、2年後、ズンデルトの北東30kmのティルブルフのプロテスタントの学校に入学したが1年半で中退している。

◎ 画商修業 ハーグ/ロンドン/パリ[1869年7月〜76年4月]
 グービル商会のハーグ支店に徒弟として入社した。画商は一家伝来の職業の一つ。
 1873年、ロンドン支店勤務。転勤して2ヶ月後にロイヤー婦人の経営する下宿に引っ越した。娘のアーシュラに人目惚れしたが、彼女には婚約者がいたため、結婚の申込みは拒否された。
 この失恋のためメランコリックになったフィンセントは、次第に宗教へ自分の気持ちを向けていった。
 10月パリの本社へ転勤し、2ヶ月後の12月にはふたびロンドン支店に戻ってきている。読書三昧の生活に没入していった。
 1875年5月、フィンセントの希望で再度パリ本社へ転勤した。
 信仰心が深まるにつれ、画商に疑問を持ちグービル商会を解雇された。

◎ 教師志願 ラムズゲイト/アイズルワース[1876年4月〜12月]
 1876年4月、たまたま新聞広告で知った寄宿学校の助教師の仕事を見つけて、英国のテムズ河河口近くにあるラムズゲイトに赴いた。数ヶ月後に学校はロンドンよりテムズ河上流のアイズルワースに移転した。カネもうけを目的とする学校であったため、経営者の要求する仕事ができず解雇された。
 同じアイズルワースにあるメソジスト派の経営する学校に補助説教師として採用された。猛烈な布教活動をしたため極度の疲労と病を得て、当時家族が住んでいたオランダのエッテンへ帰った。

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◎ 貧しい人々への伝道 ワム[1879年1月〜8月]
 1877年1月、知識欲と勉学慾に燃えていたフィンセントは、勉強がただでできる勤務先をと考え、ドルトレヒトの書店の店員となった。ここで3ヶ月間、仕事のかたわら哲学書と宗教書を読みふけった。牧師を志して大学の神学部を受験するため、1877年5月、アムステルダムでギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語の勉強に励んだ。しかし、単に学問のみを目的とした勉学では神の道から遠ざかるのではないかという疑問が生じ、受験勉強を抛棄した。
 さらに一層、宗教的な生活へ傾倒していったフィンセントは、1878年8月、ベルギーのブリュッセルの伝道師養成学校に入る。3ヶ月で取れるはずの免許が習得できなかった。1879年1月、ベルギーのブリュッセル南郊の炭坑地帯ポリナージュのワム地区で、6ヶ月だけの暫定的な伝道師として任命された。

◎ 画家へ第一歩 クエム/ブリュッセル[1879年8月〜81年4月]
 1880年7月、以前から興味があった画家になろうと決心、他人のためではなく、自己の制作のためにのみ生きる人生を選んだ。
 1年前の79年8月に移り住んでいたモンスに近いクエムが、画家としての第一歩を踏み出す場所となった。ここで彼は、独学で坑夫のデッサンや、ミレーの模写を行っている。
 この頃から彼はグービル商会で働いていた弟のテオに経済的な支援を受けるようになる。

◎ エッテン−若い未亡人への愛[1881年4月〜12月]
 1881年4月、フィンセントは、オランダのエッテンの両親の元に帰った。
 その夏、牧師館に休暇を過ごしに来ていた若い未亡人で従姉のカーテ・フォス・ストリッケルと出会い、カーテに対して熱烈な愛情を抱くようになった。
 このカーテとの恋愛事件で父と仲違いし、12月のクリスマスの日に口論をしかけたフィンセントに、怒った父は家を出るように命じた。

◎ ハーグ−娼婦シーンとの同棲[1881年12月〜83年9月]
 1881年12月、失意の彼はハーグへ移った。翌82年1月、フィンセントは5歳の娘がいる、性病もちでアル中で身重の娼婦クラシーナ・マリア・ホルニク(通称シーン)と偶然知り合い、彼女に深く同情し、同棲するようになった。
 フィンセントは、このハーグでも、絵画の制作には熱心にはげんでいた。4月に描いた「哀しみ」はシーンをモデルにして描いた。

◎ ドレンテ旅行−孤独の制作旅行[1883年9月〜11月]
 テオに結婚を反対されたフィンセントは、1883年9月にシーンとその子供らと別れてハークを去り、オランダ北東部ドレンテ地方を旅した。
 10月はじめ、ドイツ国境に近いニウ・アムステルダムにおちついた。

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◎ ヌエネン−家族との再会と亀裂[1883年12月〜85年11月]
 孤独に耐えかねたフィンセントは、1883年12月になってヌエネンの家族の所に帰り、再び一緒に生活を始める。
 翌84年の夏、彼より10歳ほど年上の隣家の娘マーゴット・ベーヘマンに恋愛感情を抱く。一度は結婚を真剣に考えたが、彼女が服毒自殺未遂を起こし、家族との平穏な生活も、つかのまのものとなった。
 1885年3月26日、父親のテオドルス・ファン・ゴッホが急逝した。その直後の4月から5月にかけて初期の代表作「馬鈴薯を食べる人々」を描いている。

◎ アントワープ−ルーベンスに惹かれて[1885年11月〜86年3月]
 1885年11月28日、アントワープへ行きアトリエを持つ。アントワープにひかれた大きな理由の一つは、ルーベンスの作品が見られることだった。骨董屋や本屋などを見て歩いた折、フィンセントは初めて日本の浮世絵を目にしている。

◎ パリ−印象派との出会い[1886年3月〜88年2月]
 1886年3月、フィンセントはテオを頼って突然、パリに向かった。33歳のときのことである。
 当時、モンマルトルに住んでいたテオのアパートへ転がり込んだフィンセントは、テオのすすめもあって、モンマルトルの商店の並ぶルピックLepic街を左手に入った路地で、L字型に右折れしている現在のコンスタンスConstance街にあったコルモンのアトリエに通う。そして、ロートレック、ベルナール、ゴーガン、ピサロ、シニャック、ドガ、ギヨーマンらと交流し、パリでも日本の浮世絵を見ていよいよ心酔する。
 ところで、テオはブッソ・ヴァラドン商会(かつてのグーピル商会)のプールヴァール・モンマルトル支店長。彼はラヴァル街(現在のヴィクトワール・マッセVictor-Masse)に住んでいたが、1886年6月にはルピック街54番地へ、フィンセントと一緒に引っ越している。こちらのほうがラヴァル街のアパルトマンより広く、アトリエ用のスペースが付いていた。
 テオは画商としてピサロ、ゴーガン、ドガなど当時のモダニストの絵をあつかっていて、その関係でフィンセントも彼らと接触し、さまざまな影響をうけた。そして印象派の影響から、次第に絵が明るくなっていった。

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◎ アルル−陽光の色を求めて[1888年2月〜89年5月]
 1888年2月19日、ロートレックから聞いた南フランスの明るい生活へのあこがれと「絵筆を太陽の色に合わせる」ためにアルルへと移っていった。
 1888年5月、ラマルティーヌ広場の黄色の家に部屋を借りている。ひまわり、ラングロア橋、海辺の小船(サント・マリー)、夜のカフェ・テラスなどを描いた。
 画家たちが互いに刺激を与えながら一緒に生活できるような共同体をつくることを夢みていた。パリ時代の友人ゴーガンを思い浮かべた。1888年10月23日、ゴーガンがやってきて二人の共同生活が始まった。しかし二人とも激烈な火のような性格だったのですぐに破綻した。運命の12月23日の夜に、最初の発作を起こしたフィンセントは、アルルの路上でゴーガンに切りかかろうとして果たせず、数時間後、自分の耳たぶを切り落とし、ゆきつけの娼婦に渡した。
 この後、ゴーガンはアルルを去り、フィンセントは病院に収容された。知らせでパリからテオが来た。このときテオはヨハンナ・ボンゲルと婚約中であった。
 1889年1月7日、病状が回復し退院する。再び激しい勢いで絵を描き出すが2月7日発作が再発し、10日間再入院をする。再び退院するが、ゴーガンとの事件後、フィンセントを狂人とみなすアルル住民の監禁要請によって強制的に病院に収容される。この病院は現在もゴッホ記念病院として残っている。
 1889年4月17日、テオはアムステルダムで友人アンドレ・ボンゲルの妹、ヨハンナ・ボンゲルと結婚する。 

◎ サン・レミ−精神病院[1889年5月〜90年5月]
 1889年5月8日、フィンセントは、サン・レミの精神病院サン・ポール・ド・モーゾールに入院する。この入院に関しては、アルルの牧師サル師の骨折りが大であった。フィンセントには彼自身の病室の他に絵を描くための部屋が用意され、好きなように歩き廻ることができるよう能う限りの自由が保証された。病院の庭は画材の宝庫で植物、風景、人物など多くの作品を残した。前景に糸杉を配し、教会の尖塔が渦巻く星と月の下に横たわる「星月夜」もこの頃描いた傑作だが精神の異常も感じさせる。
 7月5日、テオの妻ヨハンナの妊娠を知る。
 サン・レミの病院にいる間、精神状態の良いときもあるが、何回か発作を起こしている。
 1890年1月31日、テオに息子が生まれ、画家にちなんでフィンセントと名付けられた。
 3月には、ブリュッセルの20人展に出品された「赤いぶどう畑」が4百フランで売れた。これは生前に売れた唯一の絵であるといわれている。
 5月には、精神病院での生活に倦んでいたフィンセントは、旅行ができるほどからだのよくなったのを感じると、病院を出てパリに向かった。パリではリヨン駅にテオが出迎えた。 

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◎ パリ弟一家との出会い[1890年5月]
 フィンセントはシテ・ピガールのテオのアパートに3日滞在した。そこでテオの若い妻ヨハンナと甥に初めて会った。
 ヨハンナは後年、フインセントとの出会いを次のように記している。「かれらが戻ってくるまでの時間が永遠のように思われた。ついにほろ型のフィアクル馬車がシテに入ってくるのを見たとき、わたくしは何か起さたのではないかと心配しだした。二つの楽しそうな顔がわたくしに向ってうなずいた。二つの手が振られた。一瞬ののち、フインセントはわたくしの前に立っていた。
 わたくしは病人を予想していた。しかし、ここに立っているのは健康そうな顔色をして、微笑をうかべ、非常に決然としたようすを見せた、たくましい、肩幅の広い男だった。自画像のなかでは、画架を前にした像がこの時期のかれに一番似ていた。あきらかに、サル師がすでにアルルで認めて非常に驚いたあの突然の、謎のような変化がまた訪れたのだった。
『かれは完全に良くなっているらしい。テオよりずっと強そうに見えるではないか』というのが最初のわたくしの印象だった。
 テオはかれを部屋に通した。そこにはわたくしたちの小さな坊やのゆりかごがあった。この子はフインセントと同じ名前をもらっていた。だまって二人の兄弟は静かに眠っている赤ん坊をのぞさこんだ。二人とも目に涙を浮べていた。やがて、フィンセントは微笑しながらわたくしの方をふり返り、ゆりかごにクローセ編みの蔽いがしてあるのを指して言った、『レースはあまりかけない方がいいですよ。』」 (『ゴッホ書簡全集』序言より)
 フィンセントは彼の友人の画家たちとも再会した。

◎ 終焉の地オーヴェール・シュル・オワーズ[1890年5月〜7月]
 1890年5月20日、パリ西北、汽車で1時間足らずのところにあるオーヴェール・シュル・オワーズに向けてパリを去った。ピサロが書いてくれたガッシェ博士宛の紹介状を持って。博士はパリに部屋を借りて週に何日か診療をしていた。彼はオーヴェールで制作をしていたひと世代前の画家たちと親しく自身も絵を描いていた。精神科の医者で、ドービニーも友人で印象派の庇護者的な存在で彼自身も神経病を患っていた。フィンセントは一日3.5フランの宿、ラヴー亭を探してそこに住んだ。ここで有名なオーヴェールの教会を描いている。最初はガッシェの家を訪ねて食事によばれたりしていた。そんな頃、ガッシェの招きでテオ夫妻と甥がオーヴェールを訪れた。テオはブッソ・ヴァラドン商会(かってのグービル商会)から独立して一本立ちの画商になるべきか悩んでいた。結婚と子供の誕生、そして兄への仕送り、テオは、雇い主とうまくゆかないことをこぼした手紙をフィンセント宛に書いている。それに追い打ちをかけるように子供が病気になった。7月6日、テオの沈み込んだ手紙に心配したフィンセントは、朝早くパリのテオの家を訪ねた。テオは死んでも口にしてはならない科白をもらしてしまった。兄への仕送りの負担を愚痴る言葉を口にしてしまった。フィンセントは今更ながら、自分の負い目を知らされた。フィンセントはやっとの思いでオーヴェールに戻り着いた。
 続いてガッシェ博士とも衝突する。7月になってフィンセントはてんかん性の精神障害を再発する。そんな中でフィンセントは絵に描いた遺書ともいえる「荒れもようの空に烏のむれ飛ぶ麦畑」を描いた。
 1890年7月27日、フィンセントは烏を撃つためだといって持って行ったピストルの弾丸を自らの胸に打ち込んだ。

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◎ コラム ゴッホ作品を見るには ゴッホ美術館(オランダのアムステルダム) クレラー・ミュラー美術館(オッテルローのホーヘ・フェルーエ国立公園内) オルセ美術館(パリのミュゼ・ドルセ駅近く)
◎ コラム ゴッホの宿再生計画(ラヴー亭の再建 → ゴッホ記念館)

◎ ゴッホと日本  匠秀夫
 ゴッホの名を記した最初の日本人 森鴎外
 明治末期 雑誌「白樺」とゴッホ
 大正前期 まだ見ぬゴッホへの憧れ
 大正後期 ゴッホ油彩原画の衝撃
 大正期のゴッホ巡礼
 昭和前期 わずか5点の原画
 昭和戦後 相次ぐ展覧会

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4. 著者紹介
向田直幹(むこうだ・なおき)
 1936年、鹿児島県生れ。61年、慶応大学文学部卒業。62年、フリーの写真家となる。63年、渡仏、以後今日に至るまで世界各国を旅し、取材活動に従事する。作品の多くは、親しみやすいポエチックな風情をたたえながら、各国の市民感情に通じた文明批評的な色彩が特徴である。写真集に『ヨーロッパの看板』(1979)、『アメリカの看板』(1981)、『芸術家の墓』(1986)、『スケッチ・オブ・ザ・シルクロード』(1989)、『ストリート・ファニチュア』(1990 いずれも美術出版社)などがある。81年、日本サイン・デザイン協会特別賞受賞。

匠秀夫(たくみ・ひでお)
 1924年、北海道生れ。52年、北海道大学文学部西洋史学科卒業。札幌大谷短期大学教授、神奈川県近代美術館館長を経て、現在、茨城県近代美術館館長。近代日本美術史に関する著作が多く、『中原悌二郎』(1969 木耳社)、『近代日本洋画の展開−近代日本洋画史序説』(1977 昭森社)、『近代日本の美術と文学−明治大正昭和の挿絵』(1979 木耳社)、『絵を描くこころ−日本の近代画家たち』(1980 岩波書店)、『大正の個性派−栄光と挫折の画家群像』(1983 有斐閣)などがある。

5. この本を読んで
 ゴッホには弟のテオその他に宛てた手紙が書簡集として残っています。自分の作品や考え方が書いてあるので、今読んでみても大変、参考になります。しかし書簡集を読む前に、彼の一生を知ることが大切だと思います。彼が多くの傑作を残したアルルや終焉の地オーヴェール・シュル・オワーズは訪れたことがあるので、足跡を辿る大切さもわかります。アルルでは黄色い家のあった場所や夜のカフェ・テラスに描かれたカフェ、オワーズでは有名な教会や、二つ並んだ兄弟二人のお墓などを見ることができました。
 いずれ機会を見て書簡集にも取り組みたいと思っています。

6. 参考図書
(1) 「ファン・ゴッホ書簡全集」 二見史郎ほか訳 みすず書房
(2) 「ゴッホ展 孤高の画家の原風景」 東京国立近代美術館他編集 2005年
(3) 「VAN GOGH」 解説 MEYER SCHAPIRO 株式会社 美術出版社 1963.3.31

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[Last updated 3/31/2009]