10 白川静さんを悼む

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10.1 漢字に見た「神の世界」 梅原 猛(哲学者)
 白川静氏の訃報(ふほう)は、私に大きなショックを与えた。96歳でまだ新しい独創的な研究成果を次々と発表される白川氏を見て、多くの人は100歳どころか120歳も生きられるのではないかと思った。15歳年下の私も、氏を目標にして、まだ20年以上は頑張ることができると思っていたのに、氏が亡くなられて私の未来も切りとられたような気がする。
 私が白川氏を知ったのは昭和30年、私が立命館大学の文学部に常勤講師として勤めてからである。氏はすでに中国文学科の教授であったが、一般向けの書物を書かず、当時、氏の名を知る人も少なかった。そして氏は、そのころ左翼思想の影響を強く受けていた立命館の学風を厳しく批判し、孤立無援の立場であったが、悠揚迫らず自己の研究を進めておられるようであった。私は氏の学問に対する深い愛と剛直な精神に深くひかれて、しばしば氏の研究室を訪れたが、いつも氏は虫眼鏡で甲骨文を読んでおられた。その論文も、甲骨文を表現する活字がないため、ガリ版刷りの論文であった。
 氏は朝早く研究室に来て、夜遅くまでおられた。氏が立命館大学に招いた作家の高橋和巳が語っているように、大学紛争のさなかにも、氏の研究室には夜遅くまで明々と電気がつき、そこは全共闘の学生も立ち入ることができない聖地のようであった。
 当時、全学集会という学生と教員との交渉の場が設けられていたが、そこで白川氏が説明をしていると学生ががやがや騒いだ。すると白川氏は「黙れ」と怒鳴りつけ、そして「おれの話を聞いてから質問しろ」と大声で言った。全学集会は教授たちにとっては恐怖の的であり、白川氏のように学生を怒鳴りつける教授はいなかった。学生も白川氏の気迫にのまれて沈黙し、氏の説明を聞いてから質問した。学生を恐れず怒鳴りつけた白川氏に対して、学生はどこか敬意を抱いたようであった。
 白川氏が一般向けの書物を書かれたのは大学定年後である。
その著書を読んで白川氏の学問が多少私にもわかりかけてきたのであるが、それは漢字というものの成り立ち分析することによって、漢字が生まれた殷(いん)という時代の精神を明らかにする研究であった。白川氏によれば、漢字の中には神といってよいか鬼といってよいか霊といってよいか、そういうものへの深い恐れの精神が宿っているという。たとえば、「道」という字は「首」に「しんにゅう」を書く。「しんにゅう」は道を表すが、古代中国では異族の国に行くときにはその異族の首を持っていくので、「道」という字ができたというのである。白川氏はほとんどすべての漢字を神の世界との関係で解釈するのである。このような漢字の大胆にして、しかも首尾一貫した論理性をもつ解釈をした学者は、世界にも白川氏を除いては存在しないであろう。
 私はそれをニーチェの業績に比したいと思う。ニーチェはそれまで合理的な理性によって支配されていたと考えられていたギリシャ世界をアポロン的と決めつけ、ギリシャにはデイオニソス的という凶暴な熱情の世界があることを示したのである。ニーチェによってギリシャ世界の解釈は一変したわけであるが、白川氏は中国世界の解釈を一変させたのである。中国の合理主義は周の世界に生まれ、それが儒教に受け継がれたのであるが、その奥には非合理というべき殷の世界が隠れていて、それが中国文明にひそかに影響を与え続けていたという。
 白川氏は孔子についても実に独創的見解を述べられる。孔子は巫女(みこ)の私生児であるというのである。この説は儒学者たちを驚嘆させ激怒させるものであり、伝統的な中国学者の中には白眼をもって白川氏の業績を見る人もある。が、氏はそれに臆(おく)せず、幾多の証拠を挙げて、孔子 = 私生児説を堂々と述べるのである。
氏は小学校を出て政治家の書生になり、夜間中学校を出た後、立命館大学の2部に学んだ。そして氏によれば漢文が大好きで、一生漢文が読めれば幸せだと思って中学の漢文教師になったが、思いがけなく大学の教授になったという。氏は中国の古典をあまねく読んでいるようで、私が尋ねると詩経の一節などはすらすら出てくるのである。万葉集もよく読んでいて、わたしよりはるかに多くの歌を暗記していた。原典を精読し暗記するという学問は現代では衰えつつあるが、氏はそのような古い学問の精神を持ちながら、強靱(きょうじん)な思弁によって独創的な新しい学問を創造した。
 白川氏が亡くなり、巨木が倒れ、巨大な空白が生じたという感がするのである。
(出典 朝日新聞 2006.11.2 夕刊)

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10.2 偉大な独学者の魂 谷川 健一
 私の最も欽仰(きんぎょう)する白川静氏がこのたび長逝されたことに、少なからぬ衝撃を受けている。もはや日本にはこのような大学者は生まれないという深い喪失感が私を襲っている。
 白川氏の学問には全くの門外漢である私が白川氏を尊敬するだけでなく、親近感をおぽえるのは二つの理由からである。一つはきわめてユニークな氏の学問が、民俗学徒である私にもよく納得できる、という点である。もう一つは、氏が独力で学問の道を切り開いたということである。
 白川氏の考え方は民俗学的であって、とりわけ折口信夫のそれに酷似している。たとえば「歌」という文字は、白川氏によると、神への誓約の文書や祝詞を入れた器を木の枝で叩き、口を開いて神に哀願し強訴する形を示したものであるという。一方、折口信夫は、「うたう」というのは「うったう」と同根の語であり、神の同情に訴えるのが歌である、とするのである。両者の考えは驚くほど近い。白川静と折口信夫、この二人の碩学(せきがく)に共通するのは、事物の始原に神を置いたことである。その神も荒々しい原初の怪力乱神である。
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 白川静氏の学問は独力で勝ち取った「国取り」の野武士の学問であった。それは九十歳を超えてもなお失われなかった氏の不敵な面がまえがよく物語っている。世襲の禄高(ろくだか)を受けついで安穏に暮らす武家、現代で云えば、アカデミズムの狭い世界に安住する学者とは全く無縁な人生をたどってきた。
 白川氏は福井市のまずしい洋服店に生まれ、年若くして大阪に出て法律事務所の書生として住みこみ、傍ら独り勉学にいそしんだ。京都の私立大学に職を奉じてから、弁当を二つ持参して自分の研究室に通う毎日であった。一つは昼の弁当、もうひとつは夜のためのもの。1960年代末の大学紛争の時も、白川氏の研究室だけは深夜まで煌々(こうこう)と灯がついており、その灯には無作法な学生も恐れをなして、研究室に踏みこめなかった。
 しかし未知の分野を独学で切り拓(ひら)いていった白川氏の孤立にアカデミズムの学者からの風当りは強かった。白川氏は「私の履歴書」で「私はいつも逆風の中にあり、逆風の中で、羽ばたき続けてきたようである」と洩らしているが、この学界の「逆風」こそ白川氏の闘志の原動力であった。
 私は白川氏に、南方熊楠や吉田東伍と同じく、偉大な独学者の魂を見出す。
 吉田東伍は、新潟県の英語学校の中等部の退学者であった。その彼は十三年の歳月をついやして「大日本地名辞書」を完成させた。白川氏には七十三歳から八十六歳までやはり十三年をかけて完結した「字統」 「字訓」「字通」の三部作がある。南方熊楠も大学予備門を
中途退学した後は、終生独学を買いた。
 白川静氏の学問は本場の中国を遥かに凌いで、世界最高の水準に達している。それにもかかわらず、日本でその業績が正当に評価され、かずかずの栄誉が与えられたのは、たかだかここ十余年のことで、氏の最晩年に属する。栄誉の皮切りは一九九一年に菊池寛賞を受賞したことである。氏は表彰式のために上京したが、そそくさと京都に帰り「一日損した」と云ったという。白川氏の面目躍如たる挿話である。
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 白川氏は狂気を高く評価した。狂気の人でなければ既成の権威の壁を突破し、神に近づくことはできないと考えた。そうしてみれば異常な力を発揮したという点では、白川静氏は、吉田東伍、南方熊楠、折口信夫と同類の狂気の人であったということができる。
「遊ぶものは神である。神のみが、遊(遊のしんにゅうの代わりにさんずい 以下同様)ぶことができた」。これは白川氏が「文字逍遥」の冒頭に記した言葉である。氏の学問はまさに「神遊の学」であったと思う。
 私は今から十余年まえ、歌人の山中智恵子、水原紫苑、詩人の吉田加南子の諸氏と一緒に「遊」という詩歌の同人誌を作ったことがある。「遊」の題はさきの白川氏の言葉をとったものである。それのみか、白川氏にお願いして、「遊」の同人にも名を列(つら)ねて貰(もら)った。更には、山中、水原の両氏を同道して、京都の自川邸を訪ね、親しく話をうかがったことがある。
 氏の話は驚きの連続であった。その一例を紹介すると、「眞」という字は「七」と「県」から成り立っている。「七」は人が骨と化している形であり、「県」は目が大きく開いた形。つまり「眞」は行き倒れの死人の様子であるという。その死者の魂を鎮めることで、死者は保護霊に転化し、永遠なるもの、真実なるものという、今使っている「眞(真)」の意味になる。話が一段落してから、白川氏もまじえて、四人で歌仙を巻いて遊んだ。白川氏は漢詩をよくされ、短歌も作られたが、歌仙を巻くのは初めての体験ではなかったか。それも悲しいかな、今はかえらぬなつかしい思い出となってしまった。              (民俗学者)
(出典 日本経済新聞 2006.11.5)

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[Last updated  8/31/2010]